文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

三島由紀夫没後四十年「憂国忌」について。

恐らく、三島由紀夫切腹・自決事件に驚愕し、それぞれ政治的、思想的立場は異なるとしても、また三島事件なるものの意味と本質が理解できたかどうかとは関係なしに、精神的に深い影響を受けなかった日本人はいないだろう。むろん、僕も 深い影響を受けた者の一人だったが、僕が最も興味を持った反応は、京大パルチザンを率いていた左翼過激派の京大助手、滝田修(川本信弘)の「三島に先を越された。我々の陣営にも第二、第三の三島由紀夫を……」という発言だった。僕は、この滝田のことばに、何故だか、意味もよくわからないままに戦慄し、身震いしたのを覚えている。僕が、三島由紀夫や滝田修の行為や言動から、薄々、感じていたのは、「思想や政治を語るものは、それに命を賭けよ」ということだったように思われる。僕が、三島由紀夫事件に接して身震いを覚えたのは、まさに、そこに、つまり「今、此処に…」、思想に命を賭けた日本人がいるという、そのことだった。滝田の言葉も、そのことを言おうとしたものだったはずだ。三島事件を転機に、思想状況は一変した。本気か、そうでないかが、つまり、日頃の勇ましい言動とは裏腹に一目散に市民社会へ逃亡するものと、いよいよ退路を断ち切って思想闘争に命を賭けるものとの「わかれ道」が、ここで一目瞭然となったからである。特に、その後の左翼過激派の動きは、そのことを証明している。イスラエル・ロッド空港銃乱射事件を起こした奥平某、安田某等は、滝田修が率いていた京大パルチザンの残党であり、しかも僕とはほぼ同世代の青年たちであった。彼等もまた、三島由紀夫事件に、つまり「思想命を賭ける」という事件に深い影響を受けていたはずである。さて、三島由紀夫事件直後に、「三島追悼の夕べ」を開き、その後、正式に「憂国忌」と名付け、三島由紀夫慰霊祭と鎮魂祭を、毎年、執り行ってきたのが「三島由紀夫研究会」という組織だったらしいが、その「三島由紀夫研究会」が、このほど、『憂国忌の四十年』(並木書房)という本を刊行した。あまり、というより、ほとんど、文壇やマスコミは取り上げようとしないらしいが、僕は、この本に深く感銘を受けた。思想や政治に命を賭けた者たちの記録として読むことが出来るからだ。三島由紀夫三島事件を、「文学」に回収することは、三島由紀夫を「文学」に祭り上げることによって、何処にでも、掃いて捨てるはどいる小市民的な、毒にも薬にもならない、凡庸な小説家の一人として「祭り捨てる」ことである。これに対して、『憂国忌の四十年』が描くのは、今なお、生々しい存在として、そしてま凶しい存在として「生き続けている三島由紀夫」であり、三島由紀夫の文学や思想に深く共鳴する「三島信者」たちのその後の人生である。実は僕も十数年前から、この会に関係し、「憂国忌」の発起人の一人に名を連ねているのだが、そしてその関係で、毎年、顔を会わせ、それなりによく知っているのだが、この『憂国忌の四十年』という本の多くを占めているのが、このグループのリーダーであったらしい故「三浦重周」氏のことである。三浦氏は、先年、憂国忌を責任者として執り行った直後、故郷の、白雪と寒風が吹き荒れる新潟港岸壁で、三島由紀夫と同じように、切腹・自決している。僕は、そこに至るまでに、三浦氏に、いかなる理由や事情があったかを知らないが、三浦氏の自決事件にも、何かを感得した。文壇やマスコミが、この本を無視、黙殺して、松本健一平野啓一郎等の、世にもくだらない駄本(『三島由紀夫司馬遼太郎』)や、一夜漬けの雑学を披露しただけの座談会を持て囃すのは当然だろう。『憂国忌の四十年』は、思想や政治に命を賭けた者たちの記録である。すくなくともこの『憂国忌の四十年』という書物のなかには、三島事件の「事件性」と「危険性」は、失われていない。ここにこそ「文学」があり「思想」がある。ここにしか「文学」も「思想」もありえない。


  
■第四十回追悼会
 『憂国忌
 ――三島由紀夫を通して日本を考えようーーー


 とき  11月25日 午後五時(四時開場)
 ところ 九段会館大ホール
 会場分担金  お一人1000円
 プログラム


第一部鎮魂祭(齋主 乃木神社神職。祭主 松本徹)


第二部シンポジウム 『没後四十年 日本はここまで堕落したか』 
井尻千男遠藤浩一桶谷秀昭西尾幹二
 

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