文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

西部邁の「左翼くずれ」的な「反米亡国論」的な自主防衛論の出鱈目について。

西部邁といえば、「日本人は民度が低い」とか「民主主義が日本国民を根底から腐らせた」とわめき立て、普通の平均的な日本国民を罵倒する大衆批判や衆愚批判が有名だが、それに加えて「左翼崩れ」らしい、勇ましい「反米自主防衛論」なるものもあり、六十年安保のアジテータにして、また転向保守の見本として生き恥を曝した清水幾太郎の、転向の手土産に書いたと思われる「日本よ国家たれ!」を連想させるような、例によって勇ましい『核武装論』なる著書まである。左翼崩れの転向保守というのは、えてして極端から極端へ、つまり左翼革命思想から右翼革命思想へと、言い換えれば、主義から主義へと転向して、何処へ行っても前衛を気取り、派手な言動とパフォーマンスで目立ちたがるものであるが、近著の『小沢一郎は背広を着たゴロツキである』と同様に『核武装論』も、ただ単に目立ちたいだけの書物である。さて、代表的な左派論客である柄谷行人の最新作『世界史の構造』なる分厚い書物が書店の店頭に並んでいるが、それに比較されるべき保守論壇サイドの代表的な書物が、『ゴロツキ論』という自民党政治家たちとの通俗・下品な料亭交遊録なのだから、笑わせる。二つの本を並べて見較べるまでもなく、その差は歴然としている。昨今の保守論壇の劣化と堕落をもたらした人物が、誰であるかを象徴しているとでも言うほかはない。ちなみに、柄谷も西部も、あるいは今はも亡くなっていないがマルクス主義系の哲学者の広松渉も、ともに六十年安保世代であり、かなり過激な活動家であった。西部は、全学連の幹部でリ−ダ−格であったが、広松や柄谷は一介の兵士だった。僕は、小林秀雄江藤淳の著作や論文を熟読するとともに、学生時代から広松や柄谷の著書や論文をも熟読しつつ現在に至っているが、「保守」という政治思想的立場は近いにも関わらず、「転向保守」の匂いがぷんぷんと匂う西部の著書や論文は、「冷やかし」で覗くことはあっても、立ち読みで済ませており、まともに熟読したことはない。その価値がないと判断しているからだ。西部の『核武装論』は、数年前、ブックオフの百円コーナーにあったから、資料代わりに買っておいた。いずれにしろ、歴史というものは思想家であろうと活動家であろうと、その正体を完膚なきまでに暴露し、公衆の面前に晒すわけで、へーゲルではないが、残酷なものである。要するに、日本国民(大衆)は、西部邁ほど愚鈍ではないということだろう。



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