文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

何故、文藝評論家なのか。何故、政治評論家ではないのか。

僕の個人的な偏見かもしれないが、日本の政治評論の中心を先端的に担ってきたのは、政治評論家でも政治ジャーナリストでも政治学者でもなく、実は文藝評論家だった。たとえば、小林秀雄中野重治福田恒存三島由紀夫吉本隆明江藤淳などの名前を抜きに戦前・戦後の政治や政治思想のもっとも核心的な部分を語ることは出来ないように思われる。理由は明らかである。彼等は、文学作品の解読を通じて鍛えた読解力を駆使して、政治関係の人物や情報を「読み解く」という作業を、文学作品を読み解くように丹念に、しかも「踏み越え」(ドストエフスキー)を恐れることなく過激に試みてきたからだ。もっと具体的に言えば、彼等の多くは、精神的にも思想的にも、様々な意味で「自立」しており、いわゆる「主人持ちの・・・」というような生き方、つまり言論をゼニカネで売り渡すというような生き方を極度に軽蔑し、嫌悪していたからだ。権力やスポンサーに思想や言論を売り渡すこと、あるいは時代や流行に迎合すること、つまり様々な外的権威に屈服して、奴隷の思想を展開することを厳しく拒絶し、逆に様々な外的権威に抵抗して、自立した言論を確立していくこと、それこそが「近代批評の創始者」と呼ばれる小林秀雄の最大の課題だった。だから、小林秀雄等は、政治や政治思想に関しても、誰にも気兼ねせずに、好きなことを好きなだけ表現したのである。たとえば、小林秀雄に「ヒットラーと悪魔」(『考えるヒント』所収)というエッセイがある。僕がもっとも好きな文章の一つだが、そこで小林秀雄は、誤解を恐れずに言えば、ヒットラーをニコライ・スタヴローギン(『悪霊』)に喩えながら、「絶賛」している。また小林秀雄を筆頭とする文芸評論家たちの書き残したものが、いまだに繰り返し出版され、読まれ続けているが、その所以は、権力や権威や常識は言うまでもなく、何ものをも恐れない過激な思考力にある。それに対して政治評論家や政治ジャーナリストの書き残したものは、どうだろうか。むろん、政治評論家や政治ジャーナリストは政治家ではない。では、文芸評論家はどうだろうか。僕は、文芸評論家は、評論家とは言いながらも、その存在性は「政治家的存在」であって、「政治評論家的存在」ではないと思う。もちろん、文芸評論家は、専門の政治学者や政治評論家ではないから、それほど政治や政治思想に固執し続けたわけでも、政治関係の情報や知識を豊富に持っていたわけでもない。彼等の興味や関心の中心は、あくまでも文学や思想であったが、しかし彼等は、文学や思想で鍛えた読解力や構想力を、政治や政治思想を「読み解く」という作業においても駆使していたがゆえに、彼等の政治評論は、しばしば政治学者や政治評論家が思考し、表現するところの政治評論を、質的にはるかに凌いでいたように見える。野中広務官房長官によって、「官邸機密費」で、テレビや新聞、週刊誌で活躍するような売れっ子の政治評論家や政治ジャーナリストの多くが、その言論を買収されていたことが暴露されたが、そこから、政治評論家や政治ジャーナリストの書く「政治評論」と、文学者たちの書く「政治評論」との差異が見えてくるように思われる。もちろん、文学者、あるいは文藝評論家というような人種にしても、すべてがそうだというわけではない。三島由紀夫が自決し、福田恒存小林秀雄が死に、江藤淳が自殺して以後、文学者、あるいは文藝評論家というような人種も、かなり思想的に劣化しており、僕の話はそのまま当てはまらない。僕が、念頭に置いているのは、あくまでも小林秀雄福田恒存から江藤淳までであり、彼等が活躍していた時代に限定している。最近の文藝評論家たちの役割は、作家や作品の「プロモーション」役に限られている。つまり最近の文藝評論家たちは、どう見ても自立しているとは言いがたい。編集者や出版社の「パシリ」にすぎない。編集者や出版社の意向に逆らえば、おそらく文藝ジャーナリズムで生き延びることは出来ない。むろん、そういう状況は小林秀雄福田恒存、あるいは江藤淳の時代も変わらなかった。そこから、自滅覚悟で自立を目指していくか、あるいは生き延びるためには妥協し、屈服していくかは、本人の能力の問題もあるだろうが、やはり本人の思想的な覚悟の問題だろう。ところで、戦後民主主義のイデオローグ、戦後思想のオピニオン・リーダーであった政治学専攻の東大法学部教授・丸山真男に対して、烈しい批判の矢を放ったのは、小林秀雄福田恒存三島由紀夫吉本隆明だった。いずれも文藝評論家、ないしは作家だった。これは何を物語るか。むろん、彼等が「官邸機密費」を貰っていたはずはない。彼等が、丸山真男を批判したのは言論人として「自立」していたからだろう。これに対して、多くの政治学者や政治ジャーナリストは、丸山真男を批判しなかったし、批判できなかった。批判した政治学者や政治ジャーナリストがいたとしてもあまりにも思想的レベルが低く、誰からも相手にされなかったというのが実情だろう。ところで、今、われわれが直面している事態は、小林秀雄から江藤淳に至る文芸評論家たちのような「自立した言論人」の不在という現実だろう。政治評論家や政治ジャーナリストは言うまでもないが、文藝評論家にしても、現在の文藝評論家とは、福田和也のように、それこそ「官邸機密費」を貰っているのではないかと勘繰られかねないような「主人持ちの言論人」ばかりである。いずれにしろ、野中広務の「官房機密費」疑惑の爆弾発言は、政治評論家、政治ジャーナリズムの現在的貧困を暴露すると同時に、現在の文芸評論家たちの貧困をも暴露したと言っていい。(続く)





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