文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

清水正教授の『ドストエフスキー論全集 第5巻』が刊行されました。(写真は、日本で最初のドストエフスキー翻訳、内田魯庵訳『罪と罰』を手に講義中の清水正教授。)

僕は、高校時代、大江健三郎ドストエフスキーに出会うことによって、文学や思想、哲学に目覚めた。それ以前の僕は、極度の「読書嫌い」だった。しかし、この二人との出会いは強烈であり、それ以後の僕の人生を決定付けたといっていい。ところで、僕は、ドストエフスキーとその作品には興味があるが、ドストエフスキー研究やドストエフスキー論には、小林秀雄ドストエフスキー論を除いて、あまり関心がない。ひと頃、ドストエフスキーにはまっていた頃、ドストエフスキーの日記や手紙等は言うまでもなく、ベリンスキー、ベルジャーエフから米川正夫江川卓に至るまで、内外の研究書や論文を読みあさっていたこともあるが、結局、その種の研究書や論文は、僕の個人的な体験としての「ドストエフスキー体験」とは違うとうことを確認しただけで、失望・落胆し、むしろそれらの無味乾燥で、「反ドストエフスキー的」とも言うべき空疎なドストエフスキー研究書類を読むとドストエフスキー嫌いになりそうだったので、止めたという体験がある。ドストエフスキー文学は、そもそも「研究」とか「解釈」とうような作業にそぐわない。言い換えれば、「解釈を拒絶したものだけが美しい」と小林秀雄は言っているが、「研究」や「解釈」というようなものを拒絶しているのがドストエフスキー文学である、と僕は考えた。それでも、あえて、ドストエフスキー研究を試みると言うならば、その人自身が、「もう一人のドストエフスキー」にならなければならない。だら、僕は、小林秀雄を例外として、つまり小林秀雄は「もう一人のドストエフスキー」だと存在了解したので、それ以外のドストエフスキー研究やドストエフスキー論を軽蔑することにしたのだ。しかるに、そうは言いながら、僕と同世代で、学生時代から一貫してドストエフスキー研究に心血を注ぎ、早くも学生時代に自費出版とは言いながら『ドストエフスキー体験』を刊行し、それ以後も『罪と罰』論を初め、ドストエフスキーに関する大作を書き続けて来たというような、超人的とも言うべき離れ業を演じ続けてきた清水正ドストエフスキー研究には、それが単なる「研究」はなく、それ自体が「ドストエフスキー的」であるという理由から、学生時代から深い関心を持ち続けてきた。それでは、「ドストエフスキー的」とは何か。「ドストエフスキー的」とは、「過剰性」と「踏み越え」とでも言うべきラディカリズムである。つまり僕は、「清水正」の書くドストエフスキー論にそれを感じたのである。僕の学生時代は「政治の季節」だったが、政治を無視・黙殺してドストエフスキー文学に沈潜する「清水正」という同世代の若者に、ひそかに畏怖のようなものを感じていたのである。その後、どういう巡り合わせか、清水教授に誘われて、僕も日大芸術学部で教えることになり、最近はロシア旅行に同行したりというように、公私共にかなり親密な関係になっているが、そこで感じたのは、清水正というドストエフスキー研究者が、ドストエフスキーの全作品をその細部まで深く読み込んでおり、ラスコーリニコフやスタブローギン等の主人公はもちろんのことだが、それ以外の、どうでもいいような脇役たちのことまで、つまりあらゆる登場人物たちの生活や生い立ちなどまでテキストを熟読し、熟知しているだけではなく、清水自身が、きわめて「ドストエフスキー的」な過剰性の持ち主であり、「踏み越え」る思考と感性の持ち主だということだ。清水のドストエフスキー研究、あるいはドストエフスキー論の著書・論文数は、ドストエフスキーの作品群には及ばないものの、日本のドストエフスキー研究者としては、質、量ともに異例のものであり、ドストエフスキーに関する論文やエッセイなども含めると膨大な分量であるが、その根拠は、そのドストエフスキー的な「過剰性」と「踏み越え」の精神にあると思われる。東大アカデミズムを中心とするドストエフスキー研究の世界は、これまで一貫して「清水正」の業績を無視してきたわけが、それはドストエフスキー研究における東大アカデミズムのレベルが低すぎることに原因があったと言う外はない。東大アカデミズムにしろ、早稲田アカデミズムにしろ、ドストエフスキー研究において、質、量ともに、「清水正」に太刀打ちできる者がいるとは思えない。ところで、それらの清水の膨大なドストエフスキー研究をまとめて、『ドストエフスキー論全集』として刊行するように勧めたのは僕だが、それも二、三年前のことだったが、早くも今春、第五巻が刊行された。まさしく「ドストエフスキー的」な過剰性と踏み越えを体現するようなスピードである。第五巻は、清水の本格的な『罪と罰』論、『ドストエフスキーの「罪と罰」の世界』(第三巻に収録)を除く、『罪と罰』に関するその他の論文やエッセイをまとめたものだ。むろん、清水の『ドストエフスキー論全集』は、今回の五巻で終わるわけではなく、全十巻を予定しているということだから、これからも続々と刊行されるはずだ。世間では、亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』が馬鹿売れして、ドストエフスキー・ブームとやらが沸き起こっているらしく、薄っぺらな解説書や入門書が溢れているが、清水正の『ドストエフスキー論全集全十巻』の刊行は、俄仕立てのドストエフスキー・ブームと関係ないわけではないだろうが、たとえミーハー的な、一過性のドストエフスキー・ブームなるものが終わったとしても依然として残るものだろう。(写真は、『ドストエフスキー論全集』第五巻と新宿紀伊国屋書店ドストエフスキー・コーナーに並んだ清水正著『ドストエフスキー論全集』全五巻。)


清水正ブログ → http://d.hatena.ne.jp/shimizumasashi/












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