文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

野中爆弾証言の標的は「小泉・竹中構造改革」一派であろう。

自民党の「情報工作」の一環としての「マスコミ対策」にかかわる官房機密費の使い方に関する内部情報の一部を、テレビ番組や講演会で暴露し、マスコミ関係者や政治関係のジャーナリスト等に重い衝撃を与えつつある野中広務だが、今、何故、参議院選挙を目前に控えたこの時点で、政界を引退している野中が、官房長官時代の官房機密費の使い方を、わざわざ暴露するに及んだのかということで、多くの人が、その真意を探しあぐねているというのが現状だが、僕は、野中の爆弾証言の標的は、小沢一郎でも民主党鳩山政権でもなく、「小泉・竹中構造改革」一派だと思う。つまり、小沢一郎に対して「起訴相当」の決議をした「検察審査会」騒動や、普天間基地移設問題で窮地に陥っている鳩山政権の危機等をステップに、ここに来て、息を吹き返しつつあるかに見える「小泉・竹中構造改革」一派に対する宣戦布告だと思う。野中は、小沢一郎を宿敵としているように見えるが、おそらくそれ以上に、野中の政界引退の引き金になった「小泉・竹中構造改革」一派に対する怨恨は深いと見ていい。言い換えれば、野中の爆弾証言は、「小泉・竹中構造改革」前後、小泉官邸の官房機密費がどのように使われていたかということを間接的に暴露し、「小泉・竹中構造改革」一派の復権を阻止しようとするものだと思われる。ということは、野中証言は、「支持率下落」や「幹事長辞任要求」で窮地に追い込まれ、おそらく参議院選挙では惨敗するかもしれないと予測される小沢一郎、あるいは鳩山政権への援護射撃という意味を持つ。もし、ここで、「小泉・竹中構造改革」一派潰しの爆弾証言によって、小沢一郎や鳩山政権を救い、結果的に「貸し」を作ることが出来れば、野中は、今後、政界の御意見番としての地位を確立することが出来るはずだ。おそらく、野中は、小沢一郎亀井静香等との「関係修復」を目指している。そして、おそらくそれは成功する。要するに、テレビ、新聞、あるいは政治評論家、お笑いタレント、元検察のコメンテーター等による小沢一郎批判、鳩山政権批判が、この野中証言の衝撃によってトーンダウンし、政界を取り巻く空気が変わるのではないか。野中広務は、2003年9月に引退を決意したらしいが、その頃のことを魚住昭は、野中へのインタビュー集『差別と権力』のエピローグで、こう書いている。

「私、野中広務は今期をもって政界を引返することを決意しました」
 二〇〇三年(平成十五年)九月九日、小泉が再選を目指す自民党総裁選の十一日前、野中は引退を表明した。
一週間後の九月十六日、東京・有楽町の日本外国特派員協会に現れた野中の顔色は心なしか青白かった。これが大勢の報道陣やテレビカメラに囲まれる最後の舞台だという意識がそうさせるのか、彼は硬い表情のまま壇上で語りはじめた。
「私は、いま日本は国の内外を問わず危険な道をひた走っていると思います。小泉総理や日本のマスコミ、は景気が良くなったとか言っていますが、絶対に!良くなっておりません。今も一日百人の日本人が自分の意思で自らの命を絶っている。ホームレスや失業者が街にあふれています」
イラク自衛隊が行ったとき、犠牲者が出なければ日本人は気がついてくれません。正当防衛としてイラクの人を殺すことになる。日本は戦前の道をいま歩もうとしているのです。そこまで言われなければ気がつかないのかなあと思うと、一つの時代を生きてきた人間として本当に悲しくなります」
 悲壮感を漂わせた野中の演説を聞きながら、私はこの野中の評伝が月刊誌に掲載された直後に衆院議員会館で彼に会ったときのことを思い出していた。
 彼はうっすらと涙をにじませた目で私を睨みつけながら言った。
「君が部落のことを書いたことで、私の家族がどれほど辛い思いをしているか知っているのか。そうなることが分かっていて、書いたのか」
 私は答えなかった。返す言葉が見つからなかったからだ。どんな理屈をつけようと、彼の家族に心理的ダメージを与えたことに変わりはない。


 二〇〇三年九月二十一日、野中は最後の自民党総務会に臨んだ。議題は党三役人事の承認である。楕円形のテーブルに総裁の小泉や幹事長の山崎拓政調会長麻生太郎ら約三十人が座っていた。
 午前十一時からはじまった総務会は淡々と進み、執行部側から総裁選後の党人事に関する報告が行われた。十一時十五分、会長の掘内光雄が、
「人事権は総裁にありますが、異議はありますか?」
 と発言すると、出席者たちは、
「異議なし!」
 と応じた。堀内の目の前に座っていた野中が、
「総務会長!」
 と甲高い声を上げたのはそのときだった。
 立ち上がった野中は、
「総務会長、この発言は、私の最後の発言と肝に銘じて申し上げます」
 と断って、山崎拓の女性スキャンダルに触れた後で、政調会長の麻生のほうに顔を向けた。
総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」
 野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。

……
 この国の歴史で被差別部落出身の事実を隠さずに政治活動を行い、権力の中枢にまでたどり着いた人間は野中しかいない。彼は「人間はなした仕事によって評価をされるのだ。そういう道筋を俺がひこう」と心に誓いながら、誰も足を踏み入れたことのない険しい山道を登ってきた。ようやく頂上にたどり着こうとしたところで耳に飛び込んできた麻生の言葉は、彼の半世紀にわたる苦闘の意味を全否定するものだったにちがいない。
 総務会で野中は最後に、
人権擁護法案参議院で真剣に議論すれば一日で議決できます。速やかに議決をお願いします」
 と言った。人権擁護法の制定は野中が政治生活の最後に取り組んだ仕事である。だが、人権委員会の所管官庁をめぐって与野党の意見が対立し、実質審議が行われないまま廃案になった。
 それは野中の政治力の衰えを象徴する出来事でもあった。
「もう永田町にオレの居場所がなくなってしもたんや」
 野中はこんな言葉を残して政界を去った。
(魚住昭『差別と権力』より)

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