文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

郷原信郎も所詮「テレビ文化人」に過ぎない。郷原に「小沢事件」の政治的本質が見えるはずがない。


昨日、本欄に書いた「郷原氏には『国家論的思考』がない」という記事を、誰かが「阿修羅掲示板http://www.asyura2.com/10/senkyo81/msg/605.htmlに紹介してくれたらしく、阿修羅からの訪問者が、普段とは異なり、異常に多いので、何があったのかなと思い、覗いてみたら、紹介された僕の記事の下に、多くのコメントが寄せられているのがわかったのだが、それを読んでいくうちに、やはり多くの人はネットやブログからの情報を活用しながらも、未だにテレビや新聞からの情報を中心に物を考えていることがわかったので、ここでもう一度、「郷原信郎」について書いておきたくなったので、繰り返しになることを承知の上で、敢えて書いておくことにする。前もって、結論を言っておくならば、郷原信郎氏は、やはりテレビや新聞、週刊誌という伝統的メディアの人であって、特に「サンデーロジェクト」等に出演する「テレビ文化人」であって、それ故に、今回の「小沢事件」でも、その反検察的言論活動やその影響力が過大に評価されているわけだが、僕は、郷原信郎氏の書くものは、まだ新書しか読んでいないが、別に思想的に何事かを語るに値する人物とは思っていないわけで、所詮、「テレビ文化人」の一人程度にしか評価していない。おそらく参議院選挙に郷原信郎氏を担ぎ出そうとした小沢民主党幹事長周辺の読みも、その程度のものだったはずで、それは「岡崎某」や「池谷某」等が民主党からの立候補予定者リストの中心に並べられていることからも明らかであって、郷原信郎氏の顔写真も、テレビタレントの「岡崎某」や「池谷某」のそれと一緒に並べられるはずだったと思われる。というわけで、「小沢事件」騒動における郷原信郎氏の言論活動の役割も、あくまでも「テレビ芸人」(テレビ文化人)のそれでしかなかったのである。しかるに、今回の「小沢事件」が象徴的に体現したものは、「テレビとネット」の間のメディアの「権力闘争」、あるいはメディアの「世代交代戦争」だったのであって、そういう意味でも、郷原信郎氏は、検察の捜査を批判しているとはいえ、守旧派の人であり、旧体制派の人でしかなかったのである。つまり、僕が前回、書いたように、「国家とは何か」「国家の主人とは何か」「誰が国家を支配するのか」…というような国家論的、革命論的視点からの思考は、郷原信郎氏にはまったくなかったのである。言い換えれば、郷原信郎氏は、東京地検特捜部の「暴走」や「勇み足」を指摘し、告発しただけであって、検察という国家的暴力装置と真正面から対峙し、国家そのものと対決するという意気込みは、はじめからなかったのである。むろん、郷原信郎氏はそれで満足するはずだし、僕もそれを批判しているわけではなく、ただ事実を指摘しているだけである。






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