文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

小沢一郎には「国家論的思考」がある。僕が小沢一郎を擁護する根拠である。


本居宣長の言葉で、小林秀雄が引用している言葉に「意は似せ易く、姿は似せ難し」というのがあるが、この言葉は、僕が「物を考える」時の基本の哲学に据えている言葉の一つであるといっていいのだが、たとえば、僕は、「小沢一郎」という政治家を、政治家としては例外的に全面的に擁護し、日本の政治家としては、唯一、肯定できる政治家として絶賛するわけだが、それはこの言葉に関係している。政治家・小沢一郎を批判する人たちの中には、小沢一郎が「日本改造計画」で主張したことは小泉純一郎によって先取りされ、すでに実行されたといって批判する人たちや、小沢一郎の「国連中心主義」を批判する人や、その他、小沢一郎の発言の中身の一つ一つを捕まえて、たとえば「国連中心主義」や「対中姿勢」を批判する人が少なくないが、それらは、僕に言わせれば、ことごとく小沢一郎の「意」にすぎない。僕が注目するのは、小沢一郎の「意」ではなく、「姿」である。僕は、小沢一郎が「親米」であろうと「反米」であろうあろうと、あるいはまた、「親中」であろと「反中」であろうと、別にかまわないが、それは、それらが小沢一郎の「意」に過ぎないからだ。僕が、小沢一郎を評価するのは「姿」である。小沢一郎は、民主党大会で、「小沢事件」を捏造し、「小沢潰し」を仕掛けてきた検察と「全面対決」を宣言したわけだが、その時、小沢一郎は、疑惑や犯罪の具体的な中身ではなく、検察の動きの中に、たとえ如何なる犯罪にせよ、小沢一郎という政治家を抹殺するのならば、捏造であろうとデッアゲであろうと、何でもいいのだという検察側の超法律的な政治的意図を感じ取り、それならば、国家そのものを敵にすることになるかもしれないが、「逃げる」というわけにはいかないということで、検察との「全面対決」を宣言したのだと思う。その時、小沢一郎という政治家の振舞い方の中に「居直り」を見た人もいるかもしれないが、そこで、小沢一郎が政治家としての「命がけの決断」をしたことは明らかで、言うなれば小沢一郎の「姿」を、その瞬間に我々はは見たといっていい。言うまでもなく、小沢一郎という政治家の本質はその「姿」の中にある。おそらく小沢一郎という政治家は、アメリカに対してだけではなく、中国やロシアに対しても、「全面対決を辞さず」という姿勢を保持したまま、「全方位外交」を展開できるだけの精神的余裕を持っているはずである。その精神的余裕は何処から生まれてくるのか。それは、小沢一郎の思考に、レーニン毛沢東にも類比できる国家論や革命論的思考、つまり原理的思考があるからだ。先ごろ、外国のメディアが、世界の能力あるリーダーとして、三番目に挙げていたが、それもまた小沢一郎の政治思想、つまの「意」ではなく、小沢一郎の、人間としての立ち居振る舞い、つまり「姿」にこそ、能力あるリーダーの影を見ているのだ。それは、言い換えれば、小沢一郎が物事を考える時に、根底的なレベルでの思考、つまり「哲学的思考」、あるいは「国家論的思考」の持ち主だからである。そこから、小沢一郎という政治家が、外の政治家にない「カリスマ性」を持つ所以が説明できるはずである。ところで、保守系の月刊雑誌「will」と「正論」が、「小沢一郎はゴロツキだ」(西部邁)というような他愛もない小沢批判・小沢罵倒論文を初め、「小沢一郎批判特集」を組んでいるらしいが、それらは読むまでもなくその中身は明らかであって、要するに小沢一郎の本質を突いていないことは言うまでもないが、実は彼等が「小沢一郎批判」に夢中になるところに、小沢一郎の政治的本質が垣間見えていると言うべきなのだ。何故、東京地検特捜部は執拗に小沢一郎を狙うのか。何故、新聞やテレビ、そして週刊誌や月刊雑誌は、こぞって小沢一郎批判に熱中し、小沢一郎罵倒に興奮するのか。我々は、久しぶりに登場した異能の政治家(革命家?)としての小沢一郎の「意」ではなく、その「姿」に、つまり小沢一郎が持っている政治的才能と資質に興奮すると同時に、それを、意識的か無意識的かはともかくとして、密かに畏怖しているのだ。僕が、小沢一郎という政治家を、検察の国家的暴力や検察の走狗と化したマスコミの批判・罵倒・バッシングから護らなければならないと考える所以である。
 




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