文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

佐藤優の「高畠素之の亡霊」〈「新潮」連載完結〉を読む。

論壇やジャーナリズムにおける佐藤優の最近の活躍は目覚しいが、しかし、佐藤の言論活動の特質は、「売れっ子評論家」や「売れっ子ジャーナリスト」によく見られるように、社会の表層的な現象を追い掛け回して、その都度、適当なコメントや解説を繰り返して、思想家の振りをすというようなものではなく、むしろ、目前の社会現象とは無縁そうに見えるような、深い思想的裏づけに基づく原理的な思考を展開するところにある。佐藤自身が巻き込まれた逮捕事件を「国策捜査」という言葉で表現した時から、小沢民主党党首を辞任に追い込んだ「第一次小沢事件」に対しては「検察官僚の青年将校化」論を、そして今回の「第二次小沢事件」に対しては「検察官僚のクーデター」論をというように、佐藤が考案する「言葉」は、政治的事件の本質を見事に捉えている。おそらく佐藤の一連の「言葉」がなければ、事件は、検察官僚たちの予測どおりの展開をしていただろう。あるいは、別の見方をすれば、佐藤の「言葉」によって事件は、予想外の展開を見せている。「小沢事件」は「不起訴」ということになったが、おそらく早い段階で、「官僚クーデター」説を主張した佐藤の、この「官僚によるクーデター」という「言葉」がなかったら、正義の味方・検察官僚が、悪徳政治家・小沢一郎の犯罪を告発するという図式の元に、つまり検察官僚の思惑通りに事態は進んでいたはずである。さて、佐藤が、「国策捜査」論から「検察官僚の青年将校化」「検察官僚のクーデター」論まで、巧みな言葉を紡ぎだすことが出来たのは、佐藤が深い思索を繰り返す原理的な思想家だからだろう。佐藤は、今、実は、「文学界」に「ドストエフスキーの預言」を連載し、一方では「新潮」に「高畠素之の亡霊」を連載している。「高畠素之」は日本で最初に、マルクスの『資本論』を完訳した人で、元々は、同志社大学で(佐藤優の先輩)キリスト教神学を勉強していたが、マルクス主義を知り、マルクスの『資本論』の全訳作業を経て、国家社会主義者になった人である。つまり、佐藤は、論壇やジャーナリズムで華々しく活躍する一方で、ドストエフスキー論とマルクス論を、あるいは国家論を同時進行で書き続けてきたのだ。佐藤の発言が異彩を放つ所以である。ところで、先月(「新潮」二月号)で「高畠素之の亡霊」が完結したので、ここで、佐藤が、何を、どのように論じているかを見ておこう。私の読みに間違いがなければ、佐藤が論じているのは原理的な「国家論」である。国家論といっても、保守論壇で頻繁に使われている「国家観」を論じたものではない。保守思想家たちが言う「国家観」とはナショナリズム愛国心というような言葉で代行できるものでしかない。彼等には、「国家とは何か」という原理的な問いがない。佐藤の「高畠素之の亡霊」が問題にしているのは「国家とは何か」という問題であり、「国家とは何か」を、ヘーゲルマルクス、ラッサール、レーニン、そして日本の「講座派」と「労農派」というマルクス主義の二つの大きな流れを通して、原理的に論じたものである。たとえば、「高畠素之の亡霊」の第一回目に、佐藤はこう書いている。≪産業社会を生きているわれわれは、国家がある状態しか知らないので、国家と社会が一体になって見えるのである。しかし、それが原理的に区別されているとヘーゲルは考える。高畠はヘーゲルの言語を正確に把握している。≫ ヘーゲルは国家と社会を区別する。社会とは、家族が自己の欲望を充たすために各人が活動し、そして相互関係を結ぶ場であるが、しかし、国家は社会全体の合理的意志に基づく組織であり結合である。社会は個々人の私的利害の戦場であるが、国家は個人や家族を超えて、全体の利害を代表する組織である。ヘーゲルの定義に従えば、国家は、倫理の全一体であり、自由の実現を意味する。これは、高畠の理解したヘーゲル的国家論の解釈だが、佐藤は、高畠は、ヘーゲルの国家論を正確に把握している、と言う。言い換えれば、これは、高畠が、マルクスの翻訳に心血を注いだにもかかわらず、「国家の消滅」を理想として目指すマルクスの国家論に批判的だということである。高畠は、国家は消滅しないと考え、その結果、国家の枠内において、階級対立を止揚し、自由な社会を実現し、人間の調和と一致を、あくまでも国家の枠組みの中で思考する国家社会主義者となったというわけだ。いずれにしろ、佐藤は、「高畠素之の亡霊」において、国家論という視覚から、「階級闘争」や「窮乏化」など、様々な問題を原理的に論じている。こういう原理論的思考の裏打ちがあるからこそ、「我こそは国家の主人である」と思い上がった「検察官僚の暴走」を、226青年将校にたとえたり、「官僚によるクーデター」という言葉を紡ぎだすことが出来たのだろう。立花隆福田和也が、小沢事件を分析・解釈するにあたって、あくまでも小沢一郎個人の倫理や器量の問題に矮小化するのは、佐藤のような原理論的思考が欠如しているからだろう。



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