文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

立花隆も福田和也も終わったね。「小沢一郎批判」の方法も論理も古すぎて話にならない

立花隆福田和也が「小沢事件」をめぐって、「文藝春秋」三月号で、小沢事件ではなく、小沢一郎個人を烈しく批判・罵倒しているが、一読するまでもなく、とても使い物にならないような懐メロ調の「恨み辛み」的批判ばかりで、よくも天下の国民雑誌「文藝春秋」に、このようなお粗末、且つ時代はずれの駄文が、堂々と掲載されているものだと不思議に思うくらいで、しかし、よくよく考えてみれば、これは、「文藝春秋」そのものが、昨年廃刊された「諸君!」と同様に危ないのではないかと思わせるようなものだが、たとえば、立花は、同誌掲載の「『政治家』小沢一郎は死んだ」というエッセイの冒頭の部分で、「しかし、その日の夜中、いろいろ考えていくうちに、急に、いまさら小沢一郎でもないだろうという考えがわいてきた。」と書いているところを見ると、もう立花に、「小沢一郎論」を展開するべき気力も論理も思想もないことがわかる。それならば、「小沢事件はもう自分の手に負えない」と辞退すればそれで済むことなのに、気力も論理も思想もないままに、「私の目には小沢はとっくに死に体と映っている。小沢が当座を法律的にあるいは政治的・社会的に切り抜けたとしても、それはしばしの間しか続くはずがないと思う」というようなことを、つまり、延々と小沢一郎への「恨み辛み」節を書き連ねることになったらしい。気の毒と言えば気の毒だが、しかもその結論が、小沢は心臓病で癌も経験しているから、肉体的にも近いうちに死ぬだろう、と言うのだから笑わせる。ちなみに立花も、癌だそうだが、僕は詳細は知らないから、言及は避けよう。いずれにしろ、立花の小沢一郎論は、一貫して「感情論」であって、昔の『田中角栄研究』の威光を鼻にかけているだけで、まともに小沢一郎という政治家の現在に立ち向かおうとしていない。その証拠に、これだけ世間を騒がせており、それ故に「不起訴」の判断に東京地検特捜部が追い込まれた問題、つまり「検察の暴走」と言う問題や、マスコミにおける「検察リーク報道」の問題、あるいはアメリカ政府筋の圧力、つまり「アメリカの影」という問題、等は見事にスルーしている。まるで、「検察は神様です」「検察の捜査に間違いはありません」「検察が秘書三人を逮捕したのだから、小沢も共犯で捕まる」とでも、言いたげな口調である。立花隆の頭は、『田中角栄研究』で止まっており、今、現在は思考停止状態である、と見て間違いない。ところで、もう一人の福田和也小沢一郎批判「小沢一郎の小さな『器量』」も、立花のものと大して変わりはない。福田も、「検察の暴走」論や「検察リーク報道」論、あるいは「アメリカの影」論に、まつたく興味を示さず、もっぱら、小沢一郎の生い立ちや交友関係、あるいは選挙や権力闘争に明け暮れた政治家人生を、「人間の器量」というキーワードで論ているたけで、誰が読んでも手抜きの「やつつけ仕事」にすぎない。そして、原敬田中角栄という政治家を例に出して、「小沢氏の『器量』は角栄、原の『器量』と比べても何と小さいことか。」と書く始末である。福田よ、小沢一郎論を書くなら、江藤淳の『閉ざされた言語空間』でも読んでから、書け。いずれにしろ、立花隆福田和也も、この原稿を書いている時点は、東京地検特捜部とマスコミが、おそらく、小沢一郎という政治家を追い詰め、やがて小沢一郎の政治生命を絶つだろう、ということを予想している頃だろう。今頃、二人とも大恥をかいている最中だろう。むろん、「小沢不起訴」という結末が示しているように、立花と福田の分析は的外れもいいところで、「死んでいく」のは小沢一郎ではなく、小沢一郎に「死亡宣告」を下した立花隆福田和也の方だった、ということだろうか。




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