文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

立花隆はもう終わりだな(笑)。

立花隆が緊急寄稿(1) 異例の再聴取の裏を読む「小沢はもう終わりだ」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100202-00000301-gtwo-pol

拙ブログの「コメント欄」に以上のようなアドレス付きの書き込みをいただいたので、早速、検索し、覗いてみたが、これまで、ことあるごとにそれなりの重要な役割を演じてきた立花隆というジャーナリストが、ついに馬脚を現したということのようで、つまり立花隆が、『小沢一郎』に異常ともいえるこだわりを持っていることはわかったが、二回目の事情聴取という情報に舞い上がったのか、自分の願望と妄想をまとめたのか、「小沢はもう終わりだ」という頓珍漢なコラムを書いているのを読んで、ちょっと気の毒だが、「終わっているのは小沢一郎ではなく、オマエだろう」と思わないわけにはいかなかった。立花隆が、何を見ていて、何を見ていないかは、以下のコラムを見れば明らかだろう。「正義の検察」と「巨悪の政治家」という単純素朴な二元論が、立花隆の頭にはこびりついているらしく、「検察」という政治的存在が、まったく見えていない。言い換えれば、これは、ジャーナリストという存在を、東京地検特捜部の代理人としてしか見ていないということで、東京地検特捜部という組織こそ、権力を象徴する暴力装置だということが、立花隆には、まったく見えていないということだ。結果的には、日本の国益を毀損することになった『田中角栄研究』の中身もかなり怪しいものだったが、いずれにしろ、東京地検特捜部が日本の総理経験者・田中角栄を逮捕するのに貢献した、その時の立花隆のジャーナリストとしての名声の賞味期限もとうに尽きていたのである。東京地検特捜部と同様に、立花隆というジャーナリストも、テリー伊藤や北野たけし…等テレビ芸人とともに、今となっては「百害あって一利なし」というわけで、「仕分け」しなければならない存在だということだろうか。

立花隆が緊急寄稿(1) 異例の再聴取の裏を読む「小沢はもう終わりだ」
G22月 2日(火) 15時58分配信 / 国内 - 政治
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立花隆
立花隆(評論家)


 小沢は生きのびられるのか?
 小沢は基本的に終った! あと一日、二日は生きのびるかもしれないが、小沢の政治生命はすでに終っている、と私は思っている。

 一月三十一日、小沢は検察から二度目の事情聴取を受けた。それも三時間余にわたる長時間の事情聴取である。二度目というのも異例だが、それが三時間余にわたったというのも異例である。
 とりあえずの記者会見で、小沢は何でもなかったかのようなコメントをしたが、もちろん小沢は事態がどれほど深刻かがよくわかっている。

 だからこそあわてて記者会見で、もし自分に刑事責任を問われた場合には、どうするこうするという自分の進退問題にまで言及したのである。二度目、三時間余の事情聴取(とはいっても、一回目から被疑者調書を取られているから、むしろ取り調べといったほうがよい)の中で、自分が刑事責任を問われつつあるという感触を得たからこそ、小沢はこんな言及をしたのだ。明後日、秘書処分にともなって小沢が政治責任を取らざるをえない形での小沢処分があると見てまちがいあるまい。

 はっきりいって、小沢はもう終りと見てよいだろう。検察が二度目の事情聴取に踏み切るのは異例のことである。検察が目算なしに有力政治家の事情聴取に踏み切ることもなければ、秘書の逮捕(それも前元あわせ一挙に三人もの)に踏み切ることもない。ましてや二度目の本人事情聴取に踏み切ることはない。

■庶民の怒りが「法的妥当性」をただす

 もちろん、嫌疑の筋がただの形式犯にしか問えないような(たとえば交通規則違反とか軽犯罪法違反)事例であればそこまではやらない。今回小沢が問われている事例は、そのようなケースではない。
 政治資金規正法違反は、形式犯ではない。いまや、かつての贈収賄罪と同じような、政治とカネの問題にかかわる中心的な犯罪になっている。政治資金規正法違反の性格をそのようなものに変えたのは小沢一郎その人である。
 金丸信の事件までは、政治資金規正法違反は社会的にも実質的にもそのような(秘書に押しつければすますことができる)形式犯罪とみられていた。しかし、それをそのような形式犯罪と見たが故に、検察は金丸を略式起訴罰金二十万円でおさめようとして、それに怒った一庶民が黄色いペンキを検察庁の看板に投げつけるところがテレビ画面に映し出されたところからすべてが変った。そんなバカな形式処分でことをおさめてよいのかという庶民の怒りが法的妥当性の議論をただした。
 小沢の政治改革(政治資金改革)は、すべてこの黄色いペンキ事件から出発している。その基本的発想は、贈収賄事件など、特殊な事犯で政治家の不正なお金の流れを取り締まることはむずかしいから、むしろ、政治家のお金の流れ一般の透明性を高めれば自然に不正なお金の流れも消えるだろうということで政治資金規正法中心に取り締まりの流れを変えたのである。といっても取り締まりラインをあまり低く設定すると、違反事例が多くなりすぎて事務処理に困る。結局、国会議員クラスをやる場合は、違反金額が一億円を超えるケースというのが、ここ数年の事案でなんとなくできかけていたガイドラインだった。

角栄・金丸に並ぶ事件

 そのガイドラインからみて、小沢のケースは、四億円(ないし八億円)であるから、文句なしに大きすぎるほど大きい。小沢の四億円は、田中角栄ロッキード事件の五億円、金丸信の五億円(佐川急便事件)とくらべて金額的に文句なしに同列にならぶ事件なのである。
 これが単なる政治資金規正法違反事件にとどまるか、それとも、もっと大きな事件に広がるかは、まだよく見えていないが、政治資金規正法違反だけにとどまったとしても、その金額の異常な大きさは、それが現金で動かされたという形態の異常さ――四億円のキャッシュは、四十キログラムというとてつもない重さになる――とあいまって、小沢の金銭感覚の異常さをよくあわらしている。
 小沢一郎の金銭感覚の異常さは、彼が政治家の一年生としてこの世界に入ってきた当初から、田中角栄金丸信という歴代の政治家の中でも最も金銭感覚の異常な超権力者たちの側近の政治家として育ってきたというキャリアのしからしめるところが大だったのかもしれない。小沢のもう一つの異常さは、その不動産への執着ぶりで、日常、走っている車の中から、なにかいい売り物件を目にすると、すぐに、それがいくらか、どのような条件かを調べさせるというエピソードによくあらわれているが、実はそのような性癖は田中角栄も持っていたことが、よく知られている。おそらく、小沢は田中角栄に付き従って歩いているうちに、その性癖を自然に学び取ってしまったのかもしれない。そのような不動産を入手しては、秘書の住居として利用させたりしていたというあたりも、田中角栄の不動産利用法とそっくりである。また田中角栄の場合、それら不動産をペーパー・カンパニー(ユーレイ企業)名義として所有し、それらユーレイ企業が幾つもあったことで知られているが、小沢の場合は、ユーレイ企業の代りに陸山会などの政治資金団体名義にしていたわけで、カタチこそちがえ、構造的には、田中角栄がやっていたこととそっくりである。ここにおいても師匠ゆずりの手法が習い性となっていたといえるのではあるまいか。

■古い日本型政治と訣別を

 小沢は終るが、これで民主党が終るわけではない。もちろん自民党が復活するわけではない。前回選挙で獲得した民主党議席をここで捨てなければいけないというわけではない。今回の不祥事は小沢一郎という異常な性癖を持った政治家個人の不祥事であって、民主党という政党の不祥事ではないから、この際、責任は小沢に押しつけて、民主党政権は維持しつづけてよい。今回の小沢の不祥事は、むしろ小沢の中の自民党的体質部分がしからしめたものといってもよいのだから、この際、日本の政界は、小沢に日本の政治の古い体質を全部押しつける形でその責任をとらせ、むしろ事件の再発防止にエネルギーを注ぎ、ここで抜本的に日本型政治の古い体質に抜きがたく存続してきた政治資金問題の最終解決をはかれるのがよいと思う。
 最終解決はそれほどむずかしい問題ではない。それは要するに、すべての政治資金の収入も、支出も各議員一定の銀行口座経由のみとすることにすればいい。そうすれば政治資金の流れは完全に透明になり、何か問題が起れば、その流れをすぐトレースできるから、今回のような問題はそもそも起きないし、起きても、ああでもないこうでもないの無駄な議論をいっさいなしにできる。
 こういうときだからこそ、これを一挙にやってしまえば、それこそ百年も待たずに一挙に河清が得られること必定である。
 小沢、小沢で騒ぐのはもういいかげんでヤメにして、日本の政治をよりよくするために、小沢の終りをいかに利用するか、という方向に発想の転換をはかるべきではないか。

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