文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「低学歴政治家亡国論」ーー鳩山邦夫は、何故、「西川更迭論」にこだわれるのか?

20世紀最大の哲学者と言われ、実存主義構造主義も、そしてまたポストモダン哲学さえも、そこから始まったと言われるハイデガーは、その主著『存在と時間』の冒頭に、プラトンの、ソフィストを主題にした対話篇『ソピステース』の中のソクラテスの次のような言葉を引用している。「……というのは、<存在する>という言葉を使うときに、自分でいったい何を言おうとしているかを、君たちならばずっと前から知っているにちがいないのだが、われわれの方では、ひところでこそそれがわかっているつもりだったのに、今では途方に暮れているありさまなのだから……」この文章の引用から始まるハイデガー存在論は、「存在とは何か」という「存在の意味」を問う哲学だが、そこには、西洋の哲学史は、つまり誤解わ恐れずに分かりやすく言うとすれば、西洋人は、「存在」を忘れ、そしてその「存在忘却」の事実さえ気付かないほどになってしまっているという現状認識があった。言い換えれば、西洋人が「存在」だと思っているものは、存在そのものではなく、「存在の影」のようなものだということである。従って、ハイデガーの哲学的試みは、存在を再発見し、存在を回復しようとするものだったということが出来る。とすれば、この「存在」という言葉を、政治や思想や言論に置き換えて、考えて見ることも出来るだろう。たとえば、やや大げさに言うならば、現代の政治家たちを初めとして、思想家、ジャーナリスト、文化人…、その他、様々な人たちが、「存在」を見失い、「存在」を忘れ、しかも「存在忘却」という事実さえも目に入らぬ有様である、と。というわけで、話は突然、現代日本の永田町へと変わるが、鳩山総務相の「西川日本郵政社長更迭論」と、それに対抗する「小泉・竹中構造改革」一派による政財界マスコミをも巻き込んだ激しい裏工作と巻き返し、つまり「西川続投論」との対立抗争という、最近の陳腐な政治ドラマほど、現代日本の政治の深層を、つまり政治家たちの「存在忘却」の現実を知る上での格好のテキストはないと思われるが、それにしても不思議なのは、これまでは、世襲代議士で鳴かず飛ばずの「はぐれカラス的政治家」に過ぎないと思われていた鳩山総務相の変身・変貌ぶり、つまり「かんぽの宿疑惑」から始まり、「日本郵政」社長人事問題へと突き進んで来た、その異常とも言えるような執念と強靭な粘り腰である。僕が、鳩山総務相のこの「西川更迭論」問題に注目するのは、「鳩山邦夫は、何故、『西川更迭論』にこだるのか?」という、鳩山総務相の「西川更迭論」へ拘りの動機を、ポスト麻生を狙った政局がらみではないのかと疑うかのような消極的問題としてではなく、「鳩山邦夫は、何故、『西川更迭論』にこだわれるのか?」という政治家の資質や才能に関する積極的問題として考えるからである。僕は、すでに何回も書いてきたので繰り返しになるが、鳩山総務相の最近の政治的振る舞いや言動を見ていると、「政治家のあるべき姿がここにある」と声を大にして言わざるをえない、と改めて思う。明らかに、「西川更迭論」に固執する鳩山総務相自民党内で孤立しているはずであり、それに、経団連、マスコミを中心とした「郵政民営化」推進・擁護グループの激しい鳩山総務相封じ込めの動きもある。安倍晋三元首相のような脆弱な世襲代議士なら、とうに投げ出しているか、あっさり態度変更しているはずである。さて、ここからが、本論だが、聞いたところによると、鳩山総務相は、東大法学部を一番の成績で卒業しているそうである。ちなみに二番は厚生労働相の枡添要一氏だったとか。東大法学部という学歴や卒業時の成績など、政治の現場とは関係ないという人もいるかもしれないが、僕は、そういう「学歴無用論」的ロマンチシズムこそが、「派閥罪悪論」や「金権撲滅論」とともに、日本の政治や政治家を劣化させてきた大きな要因だったと見るが故に、学歴や成績にこだわるのである。むろん、原則論としては、東大法学部を何番の成績で卒業しようと、それは政治や政治家の能力や資質と直接の関係はない、政治の世界は実力主義の世界であって、東大法学部と言っても、すでにその時点で燃え尽きた、抜け殻のような「元秀才」もたくさんいるだろう、というのは正論だろうが、あまりにも美しすぎる正論であるが故に、僕は、そういう正論を信用しない。宮沢喜一を最後に、その後に登場した日本の首相たちの「学歴」を調べるまでもなく、日本の政治や政治家の劣化に貢献したのは首相たちの「学歴」だった、と僕は考える。安倍、福田、麻生と続く、つい最近の首相たちの才能や資質という問題に限ってみても、そこに「世襲」という問題と同時に、「首相の学歴」という問題も浮上してくるはずである。僕は、何故、しばしば政治家たちの「世襲批判」や「派閥批判」、「金権批判」が沸き起こるのに、「低学歴政治家撲滅論」や「低学歴首相亡国論」のような政治家の「学歴論」が沸き起こらないのか、不思議に思う。むろん、低学歴だろうが無学歴だろうが、自力で這い上がってくる政治家や、実力と腕力だけで総理総裁を目指す無学歴の政治家が存在していいし、また存在すべきだと思うが、そうだからと言って政治家や首相に学歴や成績が無縁だとも思わない。政権交代を目前にした断末魔の自民党において、東大法学部で一位、二位を競ったという枡添厚生労働相と鳩山総務相が、突然、首相候補として台頭してきたのは、不思議でもなんでもなく、必然的である、と僕は思う。いずれにしろ、「諸君!」や「正論」、あるいは漫画を読んで、「保守政治」とやらを勉強したという安倍晋三元首相や石破茂氏、麻生首相などのような暗愚の政治家たちには早々と政界から退場してもらいたいが、退場が嫌なら、総裁選などに手を上げずに政界の片隅で静かにしていてもらいたいものである。それが、国のためになるのである。





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