文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

吉野から飛鳥の「石舞台」へ…。蘇我馬子の墓石・石室は、何故、剥き出しなのか。

吉野からの帰り、同行の仲間たちと別れて、一人、飛鳥駅に降りた。長い間、自分の足で行って、自分の目で見てみたいと思っていたが、なかなか機会がなく、実現できなかった奈良県明日香村にある「石舞台古墳」、つまり蘇我馬子の墓と伝えられてきた巨石群を見たかったからである。飛鳥駅に降り立って見ると、いつのまにか天候は快晴になっていた。レンタサイクルを借りるのるが普通なのだろうが、時間も早かったし、また天気もよかったから、僕は、歩くことにした。汗をかきながら、ゆっくりと、3キロぐらい先にあるという石舞台古墳を目指して歩いた。高松塚古墳や高松塚壁画の案内版があり、興味をそそられたが、今回は我慢することにした。僕の生まれ、育った田舎の風景を連想させるような田園風景や孟宗竹の竹林を眺めながら歩いていると、左手の丘の上に、鳥居が見え、天皇稜らしいものが見えてきたので立ち寄る。案内板を見ると、なんと、それが天武・持統天皇稜であった。意外だった。それは僕のイメージしていたものから比べると、実に平凡で、しかもあたりの田園風景に溶け込んでおり、案内板がなければ、ちょっとした田舎の名もない神社という感じで、見過ごすところであった。後から、アメリカの若者たちと思しき数人の男たちがやってきたが、彼等も神妙そうに、黙って見学していた。稜を一周してみたが、裏手の方は、鬱蒼とした雑木林と竹林で囲まれていたけれども、別に驚くほどのものではなかった。何処にでもある神社やお寺の風景という感じで、実にあっさりしたものであった。「こんなものかな…」と思いつつ、天武・持統天皇稜を後にして、石舞台を目指す。坂道を十分ぐらい歩くと、遊歩道が見えてきた。これが「山辺の道」なのだろうか。「亀石」「聖徳太子生誕の地」「橘寺」を見学しながら、さらに歩く。飛鳥川の土手の竹林や、それほど高くない山なみ、棚田、苗床、いちご園…等を見ながら、僕は、ますます、僕が育った田舎の風景によく似ていることを実感する。向かい側の山の中腹に小さな寺と五重の塔のようなものが、遠く霞んで見える。地図を見ると、山の中腹にある寺は、岡寺というらしい。耳成山や天の香具山、畝傍山なども見分けられるのだろうが、今の僕には、まだどれがどれなのか判別しがたい。時々、何処からともなく、おそらく遠くの山寺あたりからなのであろうが、お寺の鐘の音が聞こえてくる。ここらあたりが、古代、血で血を争う権力闘争の舞台であり、大和朝廷の成立の場所だったとは信じられない。地図や案内版を見るまでもなく、蘇我一族の族長だった馬子の墓と伝えられる石舞台古墳が、もうすぐそこに迫っている。杉林に囲まれた、鬱蒼とした飛鳥川沿いの湿った道を歩いていると、何回も自転車に乗った親子とすれ違う。日曜日だから、親子連れで飛鳥見学に来ているのだろう。やがて、飛鳥川に架かる小さな橋を渡ると、そこに石舞台を中心とした大きな公園が広がっていた。



蘇我馬子の墓と伝えられる石舞台遺跡。下には「石室」が剥き出しになっている。



■石舞台の地下は石室…。



聖徳太子誕生の地と橘寺。


■天武・持統天皇





★人気ブログランキング★
に参加しています。一日一回、クリックを…よろしくお願いします。尚、引き続き「コメント」も募集しています。しかし、真摯な反対意見や反論は構いませんが、あまりにも悪質なコメント、誹謗中傷が目的のコメントは、アラシと判断して削除し、掲載しませんので、悪しからず。
人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブロへ