文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

世襲政治亡国論など…。


■「イラン・イラク戦争」を描くイラン人女性作家の誕生。
 日本留学後、そのまま日本で生活している中国生まれの在日中国人が、日本語で書いた小説で「文学界」新人賞を受賞し、その上に、別の作品ではあるが、芥川賞まで受賞して、ちょっと話題になったのは、つい最近のことだが、今度は、イラン生まれのイラン人女性が、日本語で書いた小説が、またまた「文学界」新人賞に選らばれている。こんなに立て続けに外国人女性が、母国語ではなく、外国語としての日本語で書いた小説が、新人賞に選ばれていることは、ちょっとその選考基準や選考方法、あるいはその仕掛けを疑いたくなるが、しかし、無論、選考基準や選考方法に何か仕掛けや秘密があるわけではないだろう。というわけで、「文学界」新人賞を受賞したシリン・ネザマフィの「白い紙」を読んでみたが、やはり受賞するだけあって、素朴な文体に素朴なテーマの小説だが、よく出来た感動を誘う小説である。イラン・イラク戦争下の少年、少女の出会いと別れを描いているが、日本人の書いた最近の小説にはない、新鮮な魅力を秘めている。選考委員が、注目するはずで、受賞も当然ということになろう。イラク軍の攻撃の前に、隣町が全滅したために避難を余儀なくされた少年と少女の家族だったが、しかしたまたま少年の父親が、「名誉ある兵士」として戦争に参加していたことから、その父親が全滅寸前の戦線から逃亡したという知らせが密かにもたらされ、「逃亡兵の子」となったことを自覚した少年は、深く傷つく。その「ハサン」少年は、成績優秀でテヘランの大学の医学部を受験し合格するが、戦争への志願を呼びかける青年たちの激しい演説を聞いているうちに、医学部進学を勧める先生や母親を振り捨てて、兵士となり、戦場へ向かう。そして、それを見送る母親と少女……。  ≪トラックの後ろ、一番前の列に、兵隊の濃い緑の制服を着たハサンが座っていた。朝剃らなかったのか、アゴにうっすらとヒゲが生えていた。柔らかい茶色の髪に鉢巻を巻いて、細い指が、長い銃を握り締めていた。制服のせいだろうか、たくましく見える。母親がトラックの横で、チャドルで顔を隠して泣いているのにも拘わらず、ハサンは無表情で、真っ直ぐ前を向いている。目も表情もすべて乾いている気がする。手を振った。ハサンは無反応だ。居ることに気付いてくれているのか。「ハサン」と小さく呟いた。人ごみの雑音で、声が消えた。「ハサン」もう少し大きく言った。前を見ているハサンの目が全く動かない。「ハサン!」全力で叫んだ。周囲のざわめきが、一瞬だけ収まった。ハサンが茶色い目を人ごみに回らした。目があった。≫   これは、戦争ならば何処にでも見られる平凡な出征兵士たちの風景だろうが、しかし作者は、ハサン少年の複雑で、微妙な表情をよく描いている。ハサン少年は、「父親が……逃げちゃった」という不名誉な現実が耐えられない。「俺は昨日まで戦争に行っている英雄の息子だった……」。しかし、小さい町だから、父親が逃亡したという噂はすぐ広がり、これから少年と母親には、「恥をかく毎日が……」が待っているだろう。だから、ハッサン少年は、母親が泣いても、先生や少女が引き止めても、行かなければならないのだ。  ≪どれぐらい経ったろう。誰かが、゛ヤーアッラー゛と叫んだ。いよいよトラックの列が動き始める。゛我々が勝つ!゛その人が大きな声で言った。トラックに乗っている人たちが大声で繰り返した。続いて゛神のため、国のため!゛と叫んだ。全員強く唱和する。そして、テレビで見る戦争の映像と共に、いつも流れる歌、゛イエ イラン゛を全員歌い始めた。強く切ない歌詞に膝が緩む。ハサンを乗せていたトラックが、大量の黒いガスを排出しながらゆっくり動き出した。(中略)ハサンの母親が路上の反対側で、顔をチャドルで隠して、肩が激しく揺れている。ハサンの表情が黒い排気ガスで曇った。≫   単純と言えば単純な、素朴と言えば素朴な小説であるが、しかし、ここには、歴史や政治や国家や戦争を、声高に自信に満ちた語り口で語る者たちが、決して見ようとしない現実、あるいは見ることの出来ない現実が描かれていることを忘れてはならない。ハッサン少年の屈辱と哀しみと決断……。松浦理英子が選評で、「戦争や政治的動乱を背景にした小説が、平和時の日常を背景にした小説よりも、常に重く切実な問題を孕み深い読後感を残すとは決まったものではない。」と言うのは正しい。この「白い紙」は単純素朴な小説に見えるが、決して単純素朴な小説ではない。自己の心理の奥底を「突き刺す視線」が、ここには、ある。「自己を突き刺し、笑い、相対化する視線」(松浦理英子) である。 タイトルの「白い紙」の意味も単純である。「先生」がいつも言っていた言葉、「君たちの人生が白い紙のようで、自分でそれに何を書くかで、人生が変わる……」から取った題名である。この作者が、これから、日本とイランを股にかけて、どんな屈辱と哀しみと決意を描いていくのか楽しみである。それらは文学にしか描けない。ところで、この母親や少女の、あるいは少年の屈辱や哀しみを、単純に「私」の感情論として切り捨てて、「公」の論理を声高に主張するようになったところに左翼論壇、保守論壇を含めて論壇やジャーナリズムの思想的劣化と知的退廃の原因があった、と私は思う。
■「諸君!」は、何故、柄谷行人を使わなかったのか?  
論座」「月刊現代」、そして「諸君!」の休刊決定が発表されてから、保守論壇だけではなく左翼論壇をも含めて、論壇やジャーナリズム全体が直面している「危機的状況」の実態が露になってきたが、その「諸君!」の最終号(6月号)を読んでみたが、なるほど休刊・廃刊に追い込まれるはずだと思わないわけにはいかなかった。「諸君!」は、1960年代末期に、左翼論壇に対抗すべく、小林秀雄福田恒存江藤淳三島由紀夫等、つまり文学者たちを主要な執筆者として創刊された保守系オピニオン雑誌だが、時とともに雑誌の編集方針も変遷したらしく、初期の編集方針が崩れ、いつのまにか、外部に「仮想敵」を作り、それをひたすら攻撃・罵倒するという、刺激的、扇動的、あるいは排外主義的な政治的雑文中心の編集方針へ流れていったらしい。その結果、読者の読解能力も思考力も劣化していったものと思われる。たとえば、「テレビで顔を売るのが勝ち……」と公言してはばからないような軽薄なテレビ文化人・宮崎哲弥を司会者にして、最近の保守論客たちを集めた二つの座談会「麻生太郎よ、保守の気概を見せてくれ」(5月号)、「日本人への遺言」(6月号)を読んで、そのあまりの幼稚な政治漫談中心の座談会に失望、落胆すると同時に、これなら、もっと早く廃刊を決断すべきだったのではないかと思わないわけにはいかなかった。そもそも、テレビ文化人・宮崎哲弥を司会役に起用するところに、現在の「諸君!」を筆頭とする保守論壇メディアが堕ち込んでいる思想的劣化と知的頽廃が垣間見えると言っていい。素人レベルの「政界情報」や、安っぽい「政治談議」ばりでは、読者もこの程度でならば読む必要はないと判断し、すぐに見捨てるのは当然だろう。この種の世俗的な政治漫談に、最後までついてくる読者は、おそらく程度の低い野次馬的な読者ばかりだろう。 「諸君!」の記事に比べれば、「中央公論」5月号の柄谷行人西部邁の対談「恐慌・国家・資本主義」の方がはるかにマシだろう。ここで柄谷行人西部邁は、最近、全世界を覆う経済危機について、マルクスの『資本論』を素材にして、その経済危機の本質を、原理論のレベルで分析している。たとえば、恐慌という問題を、宇野弘蔵の「労働商品化の無理」や「国家は労働者を生産できない」という論理から、資本主義における「恐慌の必然性」を説き起こしたり、その解決策として、貨幣に依存しないゲマインシャフトとしての「共同体論」や「アソシエーション」という方向性を提示したりしている。特に、柄谷行人の発言は、膨大なマルクス研究の実績を踏まえているが故に、右翼や左翼、あるいは保守や革新という思想的立場を超えて、興味をそそられる。柄谷行人に比べれば、西部邁マルクスその他に関する知識不足と思考力の欠如は明らかで、西部邁が、「物事を深く、持続的に考えていない」ことがわかる。これでは、西部邁に象徴される最近の「保守思想家」の思想的レベルが、どの程度のものかは察しがつくというものである。ところで、柄谷行人は、同じ文藝春秋の月刊雑誌である「文学界」には頻繁に登場しているが、「諸君!」には登場していない。何故、「諸君!」は、柄谷行人を登場させなかったのか。保守論壇全体が、哲学や文学を、つまり本質的、原理的な議論を避けて、遊びたかったからだろう。
世襲議員が日本を滅ぼす。 さて、最近は、「世襲論」 が話題沸騰中だが、私も、ここで、一言、書き加えておこう。言うまでもなく、現代日本の政治が劣化し堕落したのは世襲政治家たちの存在が大きい。そもそも世襲政治家とは何か。これは、論壇的言説の思想的劣化とも関係しているが、世襲政治家とは、カネや地盤の苦労が少ないだけに、政治を、知識や技術のレベルで理解し、それ故にマスコミに流される流行思想に安易に飛びつき、付和雷同する政治家たちである。彼らは、本質的に選挙という「死ぬか生きるか」の現場・戦場を知らず、つまり「溝板を踏んで歩く」という肉体的訓練を怠った結果、口先だけの政策論争に溺れ、政策が政治だと勘違いする種族である。二世議員である安倍晋三議員や中川昭一議員が、「歴史観」や「国家観」という言葉を安易に乱発して、頭でっかちな「保守政治家」を気取っているが、これが危険なのである。すでに証明済みだが、彼等は政治家として、ここぞという本番で役に立たないどころか、とんでもない不始末を仕出かすのが落ちである。本居宣長に「意は似せ易く、姿は似せ難し」という言葉があるが、この言葉を小林秀雄も引用しているが、それは誤解を恐れずに政治的に翻訳して言えば、「政策」(意)より「人間」(姿)が大事だ、ということである。政策は、勉強すれば誰にでも身につく代物であるが、しかし政治家としての人間力(姿)は、どんなに勉強しようとも、どんなに努力しようとも、そう易々と身につくものではない。つまり努力すれば、誰もが、松井選手や松坂投手になれるわけではない。古い言葉で言えば、人間には、生まれたときから自然に身についた「器」というものがある。その政治家の「器」を判定するのが選挙である。さて、そもそも凡庸・愚鈍な世襲政治家が大量発生するきっかけになったのは、やはり小選挙区制からだろう。小選挙区制の場合、小泉ジュニアがそうであるように、実績も能力もないままに、つまり選挙という「生きるか死ぬか」の洗礼を受ける前に、公認の段階で、世襲が可能になる。ここに現代日本の悲劇がある。自民党民主党も、世襲議員に対して、何らかの制限を加えるつもりらしいが、やれるものなら、大いにやるべきだろう。無論、二世であろうと三世であろうと政治家を目指すことは自由である。百獣の王ライオンは、我が子を谷底に突き落とし、這い上がってきた子供だけを育てると言うではないか。





★人気ブログランキング★ に参加しています。一日一回、クリックを…よろしくお願いします。尚、引き続き「コメント」も募集しています。しかし、真摯な反対意見や反論は構いませんが、あまりにも悪質なコメント、誹謗中傷が目的のコメントは、アラシと判断して削除し、掲載しませんので、悪しからず。またこのコメント欄には、ご自分の意見や感想を書くことはかまいませんが、また読者間の意見交換もかまいませんが、小生が、匿名の読者を相手に、論争や議論をやることはありませんので、そのつもりでお願いします。このブログの本文等に 疑問を感じたら、もう一度、本文をお読みいただくか、他の資料なども精読して見てください。また真摯な意見、 新しい解釈、及び資料の紹介などは、精読した上で、重要と判断したものは、いずれ本文に取り入れ紹介して行きます。 以上、よろしくお願いします。
人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブロへ