文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

イロニーとしての保守、イデオロギーとしての保守。


 私は、青年時代から、皮肉交じりに、つまりイロニーをこめて、「保守」や「保守反動」を自称し、自認してきた人間であるが、しかし最近は、保守論壇や保守ジャーナリズムを形成しているオピニオン雑誌「正論」や「諸君!」、あるいは「VOICE」等を、ほとんど手にすることも、読むこともしていない。私が、これらの雑誌類を読まなくなった理由は、はっきりしている。それは、これらの雑誌の誌面が、素人のライターが執筆したのかと思われるような稚拙な内容で、知的刺激に乏しい軽い記事ばかりで占領されるようになったからである。しかも毎月毎月、ほぼ同じような内容の記事が反復され、たとえば、「朝日新聞批判」や「中韓批判」、「日教組批判」、「民主党批判」、「東京裁判批判」、あるいは「南京事件特集」や「拉致問題特集」、あるいは「慰安婦特集」等なのだが、そういう紋切り型の問題設定や分析が、毎月、厭きもせずに繰り返えされるだけで、要するに、それらは読まなくてもわかるような程度の内容の記事ばかりである。それらの記事は、内容も答えも、あらかじめ、ほぼ決まっているので、読む必要がないのである。私が知っている、かつての保守や保守論壇には、小林秀雄福田恒存がおり、また田中美知太郎や三島由紀夫江藤淳がいた。私は、彼らの書いた本や論文を読みながら自己形成してきた者だが、しかし、最近の保守論壇や保守ジャーナリズムを見渡してみると、小林秀雄福田恒存…等に匹敵する人材がほぼゼロである。保守論壇や保守ジャーナリズムは、一見、盛況のようであるが、しかしそれは、中身のない盛況であって、最近の保守論壇や保守ジャーナリズムには、読むに値する作品や論文が見当たらない。「保守バブル」と言われる所以であろう。たとえば、小林秀雄には「ドストエフスキー論」や「本居宣長論」という作品があり、田中美知太郎には「プラトン全集翻訳」が、福田恒存には「シェイクスピア全集翻訳」が、三島由紀夫には「金閣寺」や「豊饒の海」等の小説が、江藤淳には「夏目漱石論」という評論がある、というように、かつての保守論壇や保守ジャーナリズムを先導していたオピニオン・リーダーたちには、政治評論や社会評論の類とは別に、それぞれの専門分野での、左翼陣営をも平伏させられるような一流の業績があった。彼らの保守的発言の背景には、それらの専門分野での業績の裏づけがあり、彼らの論壇的発言の重さは、それらの業績と無縁ではなかった。つまり、それ故に、左翼全盛時代にも、左翼陣営にも届くような強い発言力と思想的影響力を保持しえたのである。ところが、最近、保守論壇や保守ジャーナリズムで活躍している保守思想家や保守ジャーナリストには、その作品がない。ただ、毎月毎月、書き飛ばしている政治的雑文の類があるだけである。むろん、彼らの政治的雑文は、左翼陣営からは見向きもされないというのが実情だろう。ところで、最近は、「保守」や「保守思想家」あるいは「保守政治家」を積極的に名乗る人には事欠かないが、しかし彼らは、小林秀雄福田恒存江藤淳等が築き上げた遺産を、ただ食いつぶしているだけのように見える。そこで、私は問いたいと思う、「何故、保守論壇や保守ジャーナリズムは、かくも幼稚になったのか」、あるいは、「保守論壇を『愚者の楽園』にしたのは誰なのか」、と。私は、最近の保守論壇や保守ジャーナリズムに欠如しているものは、自己批評であり自己批判、ないしは保守思想家同士の相互批判であると考える。自己批評や自己批判、あるいは相互批判が欠如していることが、保守論壇や保守ジャーナリズムの思想的劣化と退廃をもたらしている。批判や批評は、もっぱら外部にばかり向けられて、内側に向かうことはない。当然、自分たちは正しい、あいつらが間違っている、というような自閉的なナショナリズムを根拠にした非難合戦になる。それは政治的なイデオロギー論争ではありえても、思想的な論争となることはない。思想的論争のないところに、作品の創造はありえない。「創造するには虚無を所有する必要がある」と小林秀雄は言ったが、作品の創造は、「虚無」との遭遇を必要とするにもかかわらず、他者を批判してばかりの論争には、虚無との遭遇はありえない。常に自分たちは正しく、他者や敵が間違っていると考える紋切り型の形而上学的思考には、自己自身への懐疑や疑問も沸いてこず、したがって虚無に遭遇することもない。ところで、保守論壇の一角を形成していた月刊オピニオン雑誌「諸君!」の休刊が、つい最近、発表されて、保守思想家や保守系言論人は言うまでもなく、左翼と言われる人たちの間にも波紋が広がっている。しかし、すでに、左翼系と思われる「論座」や「月刊現代」は休刊しているのであるから、おそらく論壇やジャーナリズム全体が、つまり、今や、左右を問わず、転換期に差し掛かりつつあるのである。これは、ここ、十数年にわたって保守論壇や保守ジャーナリズムを舞台に繰り広げられてきた「一億総保守化」「ネット右翼やマンガ右翼の氾濫」「保守政治家や保守思想家の氾濫」なる現象とも無縁ではない。というわけで、これから、保守論壇や保守ジャーナリズムの劣化と退廃を、思想的レベルにまで踏み込んで、批判的に総括してみたい、と思う。無論、思想的劣化や退廃現象の蔓延は、保守論壇や保守ジャーナリズムだけのことではなく、それは左翼論壇にも及んでいる。否、おそらく保守論壇の劣化の前に左翼論壇の劣化が先行していたのかもしれない。左翼論壇や左翼ジャーナリズムの思想的劣化と退廃と言う現実があったからこそ、保守論壇の思想的劣化と退廃は始まったのかもしれない。しかし、いずれにしろ、私は、ここで、保守論壇保守系ジャーナリズムに的をしぼって、その思想的劣化と退廃について考察してみたい。





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