文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

西部邁と柄谷行人の「差異」について。


西部邁氏と柄谷行人氏は、ほぼ同世代で、ともに東大経済学部で学び、また学生時代には、反日共系新左翼「ブント」なる学生運動組織に加担し、西部邁氏が組織の幹部でリーダーの一人だったのに対して、柄谷行人氏は、ほぼ末端の一学生に過ぎなかったと言う違いはあるにせよ、その経歴や思想遍歴は、きわめて似通っていると考えて間違いないだろうが、しかし、学生運動が終焉し、学生が、大学や日常に戻ってからの思想遍歴には、大きな違いがある、というよりは思想的に決定的な違いがあると言わなければならない。「中央公論」5月号の対談「恐慌、国家、資本主義」にもそれは顕著に現れている。西部邁氏は、学生運動から手を引くと同時に、マルクスマルクス主義、あるいは左翼思想から離れ、いわゆる転向し、やがては「保守主義者」へと変身していくわけだが、そこへいくと、柄谷行人は、経済学から英文学へ転進したとはいえ、そして、やがて文芸評論家、思想家へと変身していくけれども、一貫して、マルクスや左翼思想を捨てず来ている。したがって、前述の「中央公論」5月号の対談「恐慌、国家、資本主義」において、マルクス経済学者・宇野弘蔵が話題に上ったとき、西部邁氏が、宇野弘蔵について、たとえば「労働力商品化の無理」を初めとして、多くのことを知っているだろうが、今、現在、それらについては、何も考えていないらしいことを、僕は感じ取ったのだが、それも、左翼から保守へ転向したことを自他共に認めている西部邁氏としては当然のことなのだ。これは、マルクス宇野弘蔵を再評価する柄谷行人氏と決定的にことなる点だ。むろん、僕は、単純に転向しないで、初志を貫徹しているから偉いと言いたい訳ではなく、ただ、同じ、一つの問題を徹底的に問い続けるその姿勢を評価したいと思うだけである。柄谷行人の愚直とも言うべき思想的生き方に対して、西部邁氏は、時代状況の変化を鋭く読み取りながら、実に、要領よく生きてきたと思わないわけにはいかない。したがって、転向以後の西部邁氏が、どれだけ強く、そして頻繁に「保守」や「保守主義者」であることを強調しようとも、僕には、西部邁氏的生き方への不信は去らない。たとえば、西部邁氏は、転向後、「保守思想家」という新しい生き方を選択した頃だと思うが、しきりに福田恒存の名前を出し、福田恒存を褒め称えると同時に、自らが福田恒存の思想的後継者を自認するかのような言動を振りまいていたことがある。何故、福田恒存の名前を、わざわざ持ち出す必要があったのかわからないが、おそらくその方が、早く保守論壇での地位獲得、つまり主導権奪取が容易と見たからかもしれないが、いずれにしろ、僕は、そこに、何か不純な動機を感じたものだ。当時の保守論壇の主流は、明らかに江藤淳であり、福田恒存ではなかった。何故、西部邁氏は、福田恒存を過大に持ち上げ、過剰に賛美する必要があったのか。何故、それが、江藤淳三島由紀夫、あるいは小林秀雄ではなかったのか。僕には、そこに西部邁氏の思想的本質があり、同時に思想的限界があると思う。つまり、西部邁氏の転向・保守化によって、保守も保守論壇も、やがて左翼的体質へと、つまり「イデオロギーとしての保守」の時代へと、つまり「保守の概念化」ないしは「概念化した保守」の時代へと、変貌を余儀なくされていくのである。さて、ここで、江藤淳が「自裁」した直後、「文学界」の「江藤淳追悼号」に、西部邁氏も柄谷行人氏も、追悼文を寄せているが、二人の追悼文を読み比べてみると面白い。ついでに付け加えれば、櫻井よしこ氏も、同じ号に、追悼文を寄せているが、これもまた、なかなか興味深い追悼文で、今、読み直してみると、「なるほど」と思わないわけにはいかない。つまり、ここに、保守論壇の世代交代、ないしは保守論壇の主導権争奪戦の一端が垣間見えるからである。そしてまた同時に、江藤淳以後、あるいは三島由紀夫以後の保守論壇が、どういうものに変質して現在に至っているかを知る手がかりがあると思われるからだ。西部邁氏は、追悼文の中で、厳しい「江藤淳批判」とも取れる、北軽井沢の江藤邸訪問時のゴタゴタについて、こう書いている。「たとえば、十五年ほど前の夏のこと、故田中美知太郎との対談で軽井沢に赴いた私は、ある新聞記者の仲立ちで、江藤氏の別荘を訪れることになった。会うなり氏は『君が栗田健男中将を弁護しているのはまったくけしからん』と、机をどんどん叩きながら、かなりの剣幕であられた。…」これは、西部邁氏らが江藤邸を訪問した直後のやり取りらしいが、肝心な問題はこの後のことである。西部邁氏と同行していたもう一人の新聞記者が、江藤邸を訪問したいと電話した時のことである。「軽井沢に同行していた別の新聞記者が、江藤氏から招待されてはいなかったのだが、我々に合流したいと希望した。私の勧めもあって、彼は我々より一時間ぐらい遅れて江藤邸に電話を入れ、お邪魔してよろしいかと尋ねた。江藤氏の返事は『これから食事なんだ。君の分は用意していないので、一時間後に来たまえ』というものだった。私は奥様の焼かれたビーフステーキをいただきながら、北軽井沢駅前の暗がりで時間を過しているそり新聞記者の様子を想像し、正直にいって嫌な気分になった。各家に独特の仕来りがあるではあろうものの、その記者が可哀相ではないか、嫌な気持ちになっている私のことも少しは忖度してくれてもよいではないか、と私は不満に思った。…」僕は、ここに、江藤淳的「保守」と西部邁的「保守」の違いを読み取るが、それは、同じく保守とは言っても、生活習慣や日常の立ち居振る舞いに関する領域にかかわっている問題であって、簡単に、あるいは単純に理論化できない問題である。おそらく、この生活習慣や立ち居振る舞いは、三島由紀夫福田恒存、あるいは小林秀雄も、本質的には江藤淳と変わらないだろう。西部邁氏が、ここで要求している人付き合いのパターンは、誤解をおそれずに敢えて言わせてもらうならば、多分、左翼的なものだろう。やがて、西部邁氏は、江藤淳亡き後の保守論壇を、今、述べたような意味での左翼的体質に変貌させ、そして保守論壇の主導権奪取に成功することになる。西部邁氏が、「発言者」という雑誌メディアを中心に、若者や漫画家をも仲間に取り込み、一緒に和気藹々と酒を酌み交わしながら、保守論壇を「左翼化」「アマチュア化」していくのである。同じ追悼文で、西部邁氏は、次のようなことも書いている。「いやもっと率直に言おう。私は氏の文章に感情の過多を感じており、感情が不安定に揺れ動くという自分の生来の気質を何とか抑制したいと念じてきた私にとって、それは簡単に近づいてはならぬ対象とみなされてきた。…」「私の思う保守的思考とはそういう性質のものである。その意味では江藤氏は必ずしも保守的ではない、と私は思わずにはおれなかった。…」「要するに私は、江藤氏との距離感のうちに保守思想の何たるかを探ってきたという次第である。」いずれにしろ、断片的な引用で、文意を正確に汲み取ることは出来ないかもしれないが、僕は、これらの引用から、西部邁氏が、異常とも思われるほど「保守」「保守」「保守」という言葉を連呼していることに興味を持つが、それは、おそらく保守論壇へのニューカマーとしての西部邁氏のコンプレックスとルサンチマンによるものと推察する。江藤淳三島由紀夫も、そして福田恒存も、これほど「保守」の概念や定義にこだわってはいないはずである。江藤淳等が、柄谷行人をも含めて言うのだが、政治評論的な、社会評論的な仕事とは別に、それぞれの専門分野で、超一流の仕事、つまり右翼や左翼というイデオロギーには関係なしに、深い作品を完成させているのに対して、西部邁氏が、政治評論的な雑文のみで自己満足し、語るに値するような専門的な作品を、何も残してはいないということと、このことは無縁ではない。要するに、柄谷行人氏と西部邁氏の差異とは、語るに値する「作品」がある者とない者との差異、ということであろう。西部邁氏は、江藤淳追悼文で、こんなことも言っている、「成熟といい統治といい、こうした『精神の形』によって基礎づけられるものであって、作品や制度などの具体物はたかだかそのヴィークルつまり運搬具にすぎないのではないか。」と。西部邁氏は、作品を、精神の運搬具としてしか見ていないのであるが、今更、言うまでもないことだが、江藤淳は、『漱石とその時代』という作品の完成に命を賭けたし、三島由紀夫は『豊饒の海』の完成に命を賭けたのである。




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