文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

小林よしのりとその仲間たち。 

 
小林よしのりという漫画家が、漫画家としてはきわめて異例のことだが、ここ十数年の論壇を、保守論壇だけではなく左翼論壇をふくめて、思想的に主導してきたことは紛れも事実であって、それを認めたくないという言論人や思想家は、つまり「たかが漫画家風情に…」論壇的言説の主導権を握れるはずがない、われわれは単に「漫画家」の大衆動員力や大衆へ向けての情報発信力を利用したに過ぎない、と言いたい言論人や思想家は少なくないだろうが、それは、自らの思想的能力と論壇の現実を直視できない者の錯覚に過ぎないだろう。小林よしのりは、所詮、佐藤優氏が言うように「煽動家」に過ぎないだろうが、その「煽動家」に、なすすべもなく思想的に依存し、主導権まで奪われて来たのが、ここ十数年の論壇であり、それを嬉々として許し、ある場合には歓迎してきたのが、そこに棲息する言論人や思想家たちであった。だから、僕の「小林よしのり批判」は、単なる「小林よしのり批判」で終わるのではなく、むしろ批判の中心対象は、ここ十数年の論壇であり、その周辺に棲息する言論人や思想家たちなのである。ところで僕は、つい最近、小林よしのりの連載政治漫画「ゴーマニズム宣言」の第一巻から第八巻まで、文庫版ではなくちゃんとした書籍版をたまたま古書店の100円コーナーで見つけ、手に入れることが出来たので第一巻から読んでいるところだが、予想通りにと言うか予想外にと言うべきか、西部ススムだけかと思ったら、西部ススム以外にも、哀れにも多くの言論人や思想家たちが、小林よしのりに接近し、盛んに小林よしのりに売り込み、擦り寄っていることがわかる。たとえば、僕は知らなかったが、小林よしのりは、文芸評論家の「糸圭秀実(すが・ひでみ)」と差別論で論争したことがあるらしいが、その時、小林よしのりに接近し、小林よしのりに擦り寄って仲介役や調停役を申し出てきた言論人に、「鈴木邦男」や「浅羽通明」「呉智英」らがいたらしく、「ゴーマニズム宣言」に、「一流の思想家」として紹介されている。僕は、思想家としても人間存在としても、これらの人物たちをまったく評価していないので、鈴木邦男浅羽通明呉智英も名前は知っているが、著書や論文をほとんどまともに読んだことがないが、小林よしのりの仲間だということがわかり、「なるほど、そうだったのか…」と妙に納得した。逆に小林よしのりと対立し、論争したらしい「糸圭秀実」のことは、かなり昔から知っており、思想的立場も文学に関する考え方もかなり違っているが、僕が、同世代の文芸評論家の中で唯一人評価するクリィティカルな文芸評論家であり、その彼が、小林よしのりと論争したということにも、妙に納得できた。つまりスガ秀実と、鈴木邦男浅羽通明呉智英等とでは、思想的深さが決定的に違うということであり、これは換言すれば柄谷行人と西部ススムの思想的深さの差異ということでもあるが、この思想的深さの故にスガ秀実が、小林よしのりと対立し、論壇や文壇の中心勢力から疎外され続けたのに対し、逆に鈴木邦男浅羽通明呉智英等がその思想的貧困さの故に、マスコミで活躍出来た理由でもあろう。そう言えば、呉智英が、大江健三郎の『沖縄ノート』をめぐる、いわゆる「沖縄集団自決裁判」騒動の渦中で、「屠殺」という言葉を、わざわざ取り出して、これは「差別言語」のはずだが、大江健三郎の場合は許されるのか、何故糾弾しないのか、と原告側への見当違いの援護射撃を、おっかなびっくり、産経新聞のコラムで試みていたが、今から思うと、「なるほど…」と納得できるわけだ。さて、「佐藤優/小林よしのり論争」を受けて「激論ムック」という雑誌が、表向きは中立・公平を装いながら、実質的には、アナクロニズムとしか言いようがないが、小林よしのりを一方的に擁護するかのような特集を組むらしいので、誰が小林よしのりを擁護し、誰が小林よしのりに擦り寄っているかを見れば、その思想的深さと浅さの判定は、つまり誰が生き残るに値する思想家や言論人か、あるいは誰が小林よしのりとともに消え去るべき思想家や言論人かは、言うまでもなく一目瞭然となることだろう。




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