文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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佐藤優が本格的「小林よしのり批判」を開始か?

小林よしのりが、「ゴーマニズム宣言」や「わしズム」における沖縄問題やアイヌ問題の筆禍事件から逃げて、これなら大丈夫というわけで、幼稚・稚拙な「天皇論」を展開しているわけだが、その小林よしのりの「天皇」に関する分析と理解は、元「左翼一家」で昭和天皇の物真似をして一家で笑い転げるのが日常だったという「小林よしのり一家」を象徴するかのように、一夜漬けの俄勉強で仕込んだと思われる初歩的知識満載で、結果的には反天皇的な暴論・愚論に終始しているが、小林よしのりが当面の論敵として意識している佐藤優の方だが、こちらは、「扇動家」という概念を使って、いよいよ本格的な「小林よしのり批判」を開始したようで、某誌に掲載されている佐藤優の特別論考「扇動家またはゴーレムについての考察」が小林よしのり分析として出色なので、その一部をここに引用しておこう。僕ももちろんそうだが、佐藤優もまた、「小林よしのり」というマンガ右翼をまともな論客、思想家、あるいは言論人として評価しているわけではなく、ただこのようなマンガ的人物を、一角の人物として評価し認定して、時代の風雲児にに祭り上げてしまった、いわゆる、この時代の怪しい思想的雰囲気が問題なので、その怪しい思想的雰囲気の分析として、レーニンに「何をなすべきか」を下敷きにした佐藤優の「扇動家論」はなかなか面白い。それにしても不思議なのは、まだ、恥ずかしげもなく自らの思想的劣化と荒廃を曝け出しつつ、「小林よしのり」というマンガ右翼を先頭にして右翼保守陣営を立て直そうとしている無知蒙昧な連中が、右翼保守陣営の各方面にいるらしいことである。これぞまさしく、現代の右翼保守陣営が陥っている「笑えぬ喜劇」である。

「特別掲載 扇動家またはゴーレムについての考察」
     作家・起訴休職外務事務官 佐藤優


 論戦には最低限のルールがある。争点が明確であることだ。それから、論争相手に対する最低限の敬意だ。これらが欠けているところで、「諍い」は生じても、論争にはならない。
 論壇には、論争を装った「諍い」を生業にしている輩がいる。この輩が過去に有識者と引き起こした諍いの事例研究をいくつかしてみた。この種の言論戦で、騒動師が狙うのは真摯な対話ではなく、相手を殲滅することだ。それならば、こちらも非対称な戦いを展開する。
 騒動師をめぐる問題は、日本の論壇の根幹にかかわると筆者は認識している。右翼、保守陣営に浸透してきた、左翼的な構築主義、設計主義と、それに商業主義が連動した問題と考えている。筆者は、次のような筋道を考えている。
 1983年に浅田彰氏が『構造と力 記号論を超えて』(勁草書房)を上梓した。これは「浅田革命」といってもよい現象をもたらした。そして、1980年代の半ば以降、アカデミズム、論壇の双方で、ポスト・モダンが流行になり、「大きな物語」について語られることが少なくなった。アカデミズム、論壇では左翼、リベラルが主流で、マルクス主義の影響を受けた「大きな物語」の構築はこの人たちの得意芸だった。しかし、この陣営は、小さな差異、多様な差異と戯れることに熱中した。そして、「大きな物語」は、左翼から、右翼、保守陣営に引き継がれていった。人間が「大きな物語」を好む動物である以上、これは必然的だ。しかし、この中に、左翼的な構築主義、設計主義の思想が入ってき
た。
 要するに、知的に優れた者が、意識の遅れたものを、正しい道に導く操作が可能であるという、右翼や保守陣営の思想家がもともと嫌っていた思想が、政治の技法(技術)として入ってきたのである。ここで重要なのは、「革命の指南書」としての性格をもつレーニンの「なにをなすべきか(Что делать?)」(1902年)だ。レーニンの以下の記述がきわめて興味深い。
 <一言でいえば、宣伝家は「多くの思想」を、しかも、それらすべての思想全体をいっぺんにわがものとすることは少数の(比較的にいって)人々にしかできないくらいに多くの思想を、あたえなければならないのである。これに反して煽動家は、同じ問題を論じるにしても、自分の聴き手全部にもっともよく知られた、もっともいちじるしい実例−−たとえば失業者の家族の餓死とか、こじきの増加などというような−−をとりあげ、このだれでも知っている事実を利用して、ただ一つの思想−−富の増大と貧困の増大との矛盾がばかげたものであるという思想−−を「大衆」にあたえることに全力をつくし、大衆のなかにこのようなはなはだしい不公平にたいする不満と憤激をかきたてることにつとめるが、他方、この矛盾の完全な説明は、宣伝家にまかせるだろう。だから、宣伝家は、主として、印刷された言葉によって、煽動家は生きた言葉によって、活動する。宣伝家に要求さ
れる資質は、扇動家に要求される資質とは同じではない。>(「なにをなすべきか」『レーニン選集 第1巻』モスクワ・プログレス出版所、1978年、248〜249頁)
 右翼、保守派の一部論壇人が、政治目的を達成するために、自らの主張を論理だった宣伝の手法で展開するよりも、人々の情緒に訴えることに長けた知的基礎訓練を受けていない人々を用いる扇動の手法に頼った。この扇動と商業主義が結合した。そして、この手法は効果をあげ、右翼、保守思想の影響は飛躍的に高まった。以前は数千部しか売れなかった右翼・保守陣営の本が、数万部、数十万部も売れるようになり、テレビもこれらの論壇人に場所を提供するようになった。
 宣伝家(有識者)が、扇動家に外部から知的水準の高い思想を注入している間は、深刻な問題は起きなかった。しかし、あるとき自らの世論に与える影響を過大評価した扇動家は、宣伝家の手を借りずに独り立ちできると思った。そして、宣伝家と決別した。ここから悲喜劇が始まった。
 日本の右翼、保守思想は、本来、寛容と多元性を基本とするものだ。そのためには、レーニンが述べているように<「多くの思想」を、しかも、それらすべての思想全体をいっぺんにわがものとすること>が必要なのである。が、その資質と能力のない扇動家が、排外的言説を大声で喚きたてているうちに、論壇において言葉のもつ力が急速に衰えていったのである。
 それとともに扇動家は、露骨に差別言説を展開するようになった。扇動家は、差別は心の問題に解消されるものと考えている。差別が、人間の関係性から生まれるということが、理解できないのだ。そして、「アイヌ人や沖縄人は毛深い」という言説が本質的差別をはらんでいることが理解できない。
 現代社会における耐エントロピー構造と差別の関係が扇動家には理解できないのだ。
(以下略)


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