文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

牛島満沖縄軍司令官の記念碑。

沖縄戦の司令官で、魔文仁の丘で自決した牛島満中将が鹿児島の出身であることはわかっていたが、まさかその牛島中将の生家が、僕が高校時代を過ごした甲突川のほとりにあり、その生家跡に「生い立ちの記念碑」がたっていたとは、今回の帰郷の日までまったく知らなかった。と言っても知らないのは当然で、僕が高校生だった頃には、まだこの記念碑は出来ていず、この記念碑が出来たのは昭和55年のことだったらしい。このあたりは、僕の夕暮れ時の散歩コースだったが、今のように歴史史跡の整備もされておらず、西郷や大久保の生家跡などの記念碑も、あるにはあったが、ちょっと近寄りがたい薄暗い闇のスポットと化しており、ほぼ野放しの状態だった。甲突川には、多数の古い石橋がかかり、川の中洲では「曾我ドンの傘焼き」が行われたりしていた。僕は、高麗町に下宿していたが、高麗橋という石橋を渡るとその先に旧鶴丸高校(現中央高校)があったが、そこから甲突川河畔の一帯が加治屋町で、西郷や大久保、そして東郷平八郎らが幼少年時代を過ごした歴史的空間だということすら知らなかった。今は、整備されて「ふるさと歴史博物館」などが建てられているが、その下流の方に、牛島満中将の記念碑は建てられていた。今日、鹿児島中央駅を新幹線で出発する前に、駅から徒歩10分ぐらいのところにあるその記念碑を訪ねた。見上げるほどの大きな御影石に、牛島満の名前が刻まれており、記念碑建立の賛同者として、寺園勝志や金丸三郎など、懐かしい鹿児島の「名士たち」の名前も、多数、刻まれていた。牛島は東京で生まれたが、父親が早くに亡くなったために、母親の実家のあったこの地で育ったらしい。牛島満という名前は、僕にとっても、沖縄の集団自決に関心を持つようになってから、常に念頭を去らない因縁深い名前であったが、その牛島満中将の生家や記念碑が、僕が高校時代を過ごした思い出の場所のすぐ近くにあったとは、ちょっとした奇遇であった。いつか、牛島満の伝記でも書いてみようかな、と思う「牛島満との出会い」であった。











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