文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

水村美苗と蓮実重彦


■日本語が滅びるとき。
 『続明暗』や『私小説』『本格小説』などの作品で知られる水村美苗という作家がいるが、彼女が書いた『日本語が亡びるときーー英語の世紀の中で』が、今、各処で、話題になっているようで、その影響もあるのだろうが、「新潮」と「文学界」の12月号にも、対談(「日本語の危機とウエブ進化」)とインタビュー(「日本語は亡びるのか」)に水村美苗が登場し、「日本語」の未来について語っている。その発言は、対談者が『ウエブ進化論』の梅田望夫や翻訳家の鴻巣友季子だということからも想像されるように、インターネットに象徴される最近の情報革命による社会システムの変容の流れに沿った、つまり時局に迎合した情勢論的発言という趣もないわけではなさそうだが、いずれにしろ、日本語論としても、英語論としても、最近では、珍しく、刺激的、且つ挑発的な論と言っていいだろう。
 水村美苗は、12歳のとき、父親の仕事の関係でニューヨークに移住し、そのままイエール大学、さらに同大学院で、英米文学ではなくフランス文学を専攻し、後には、プリンストン大学スタンフォード大学等では日本近代文学を教えた経験もある、というバイリンガルな作家である。アメリカで経済学者の岩井克人と結婚し帰国、帰国後は、柄谷行人等が主宰する雑誌「季刊思潮」に『続明暗』を発表し、作家の仲間入りを果たし、以後、数は少ないが、重要な作品を発表し続けている。作家としても、かなり異色な存在であることは間違いない。ところで、彼女の帰国は、80年代だということだから、「帰国子女」という言葉が持て囃されるようになった時代であろうが、言い換えれば、これは、「帰国子女」がもはや如何なる意味でも特権ではなく、ごく普通のありふれた光景になりつつあった時代だということでもある。つまり、水村美苗の日本語滅亡論は、帰国子女たる彼女自身のアイデンティティーの問題という側面との関連も否定できない。
 さて、「日本語が亡びるとき」ということだが、いったい、水村美苗は何が言いたいのだろうか。また、多くの日本人が、水村美苗の発言の、何処に過剰反応しつつあるのだろうか。水村美苗の言いたいことは、二つあるように私には見える。一つは、世界中が経済のグローバル化(アメリカ化)と同じように、言語的には全世界が「英語化」しつつあり、やがて日本語を含めて世界の地域言語は、国語から現地語に、つまり思索する言語としての役割、学術言語としての役割を英語に譲り、実質的に消えていくのではないかという危機感と、もう一つは、思索する言語としての日本語を生き延びさせることが必要だが、そのためには、英語世界に向けて「英語」で、英語的な思考や理論を批判し、対抗すべく発信することの出来る「バイリンガル」で、「二重言語者」を国策的に作っていくことが必要だろうということ。この二つに集約することが出来るように見えるが、私は、水村美苗の分析と提言に、半分は賛成だが、半分は反対である。たとえば、バイリンガルを育てていく必要性について言うと、それは、今さら敢えてそうする必要はないのであって、むしろ自然発生的にいくらでも生まれてくるはずである。圧倒的多数派を占めている英語圏に向かって、英語で発信していくことは、英語中心の文化や政治・経済の欠陥を批判するためにも、必要だろうが、しかし、その構えそのものがすでに「日本語滅亡論」に他ならない。たとえば、経済のグローバリゼーション(アメリカ化)としての新自由主義の先導役は、多くはその手の「二重言語者」、つまり「バイリンガル」的なものに他ならなかったのである。
 水村美苗によると、二十一世紀、英語圏以外のすべての国民は、英語の圧倒的な覇権によって、「自分たちの言葉」が、「国語」から「現地語」へと転落してゆく危機にさらされている。ちなみに今世紀末までに8割以上の言語が消えると言う。確かに、インドを初めとして、アジアの一部やアフリカなどの発展途上国は、すでに、それぞれの現地語を持ちながら思索の武器としての国語的役割を英語に委ねているし、その傾向は世界的にもますます強まっていくだろう。現に、文学や芸術の象徴だったフランスにおいてさえ、「フランス語の後退」は顕著になりつつあるらしい。つまり、フランスにおいてさえ、世界の共通語としての英語の比率は、ますます高まっていく傾向にある。日本は、あるいは日本人は、これまで、日本語のみで生きてきた。つまり日本語で読み、日本語で書き、日本語を話してきた。これは幸運なことであったが、しかし、いつまでもそういうわけには行かないだろうというわけである。
■ 子供には英語教育より日本語教育を。
 水村美苗の日本語論で面白いのは、現実的な世界の覇権言語としての英語の力や英語の必要性を論じながら、それ以上に日本語の教育や日本語の防衛に、あるいは日本文学の防衛ということに敏感で、熱心だということだろう。たとえば、こんなことを言っている。
  ≪<母語>の特異性を<書き言葉>で生かそうと試みれば試みるほど、翻訳は難しくなるでしょうね。でも、それ以前にもっと日本人が意識すべきは、そもそも日本語の<書き言葉>自体が、翻訳しにくいということだと思うんです。孤立した言葉であるうえに、独自の<書き言葉>の歴史をもっているから、翻訳しにくい。だからこそ、日本の作家も、翻訳しにくい言語で書いているんだという意識を持ってもいいのではないかと思います。そこに存在意義があるのだと≫(「日本語は亡びるのか」「文学界」1月号)
 日本には、世界中でも例外的に「キリスト教徒」が少ないように「英語依存者」が少ない。この事実を踏まえて、日本人は英語が苦手だという意見も少なくないが、実際は、研究や思索に英語を必要としていないだけであって、もし発展途上国のように英語に頼らなければ、研究も思索も不可能ということになれば、日本人はたちまち英語コンプレックスを克服できるはずである。ほとんどの大学では日本語で勉強し、研究し、日本語を通して外国の文献も読んでいる。言い換えれば、これは、日本人が日本語で思考し、研究しているということであり、ここに日本の文化的、芸術的思索ばかりではなく、科学的思索や政治・経済的思索の特異性と独自性がある。むろん、水村美苗が言うように、日本の文学もまた、日本語で書かれているが故に、「翻訳しにくい」が、しかしまた、「翻訳しにくい言語」で書いているという作家の自意識が、逆に日本文学を豊かにしている。「翻訳しやすい日本語」で、「外国人にもわかりやすい物語」を書いている国際的な作家こそ、日本の言語的現実を見ていないし、つまり言語的危機感を持ち合わせない盲目な作家なのである。
  ≪英語で書かれても、日本語で書かれても大して変わらないような文学を読んでいる限りにおいては、その特異性は意味を持たないでしょう。でも、まさに日本語で書かれているからこそ面白い。翻訳ではその面白さが伝わらないといった小説は、そのこと自体が価値を持つと思います。≫≪日本語で最高の思考ができるようにしっかりした日本語が流通することが重要だと思います。≫(「日本語は亡びるのか」「文学界」1月号)
  日本の子供たちへの言語教育については、こう言っている。
  ≪少し整理しますと、「国家への提言」のような仰々しい言い方になりますが、日本は二つのことをしなくてはならない。一つは優秀なバイリンガルを育成すること。もう一つは日本の子どもたちに今よりはるかに高いレベルの日本語を読むのを小さい頃に体得させること≫
 私は、「バイリンガルを育成すること」には賛成できないが、それ以外はまったく同感である。ただ、この水村美苗の英語論が、あるいは日本語論が、『国家の品格』レベルの「品格のない大衆的俗論」に堕落しないことを祈るのみである。
蓮実重彦の時評ーノーベル賞騒動の意味と無意味
 蓮実重彦が、「新潮」1月号から「随想」という時局的なエッセイの連載を開始しているが、やはり注目してよいだろう。「新潮」には四方田犬彦なども時評的な随想らしきものを連載しているのだが、問題の発見から問題の分析に至るまで、まつたく精彩がなく、ほとんど読みたいという気を起させないが、さすがに蓮実重彦の「随想」は、素材は今年のノーベル賞というように、ありふれたものだが、その分析の仕方、あるいは獲物を狙った時の攻撃の仕方は、読む者をちょつと興奮させる。あたかも、批評とはこういうものだと思わせるかのように、冷静沈着な語り口の中に、論敵に対して、激しい悪意と攻撃の手を緩めようとしないのは、蓮実重彦の随想が、高見の見物ではなく、常に現場での思考の産物だからであろう。今年のノーベル文学賞は、日本では『調書』でお馴染みのフランスのル・クレジオが受賞したのだが、ル・クレジオがアフリカの、かつての英国領モーリシャスの出身ということから、「半分は英国人」と書いたイギリスの新聞「タイムズ」や、「ル・クレジオの名前など聞いたこともない」と無知を堂々と告白するアメリカの「ロサンジェルス・タイムズ」等のノーベル賞報道を酷評する一方で、「『フランス文化の凋落』という大方の見方を鮮やかに否定する『快挙』」という声明を出したフランスの首相の偏狭さをも、嘲笑する。ノーベル賞作家の国籍にこだわることに、何の意味があるのか、というわけである。
 しかし、とりわけ蓮実重彦の筆が冴えるのは、村上春樹ノーベル賞受賞の「コメント騒動」を書いた内田樹という日本の大学教師のブログの文章を、激しく嘲笑し罵倒した部分だろう。ここには、個人への単なる嘲笑や罵倒を超えて、きわめて重要な現代文学への批判が隠されている。次の内田樹の文章こそは、現代文学の堕落を象徴している。
  ≪蓮実重彦は村上文学を単なる高度消費社会のファッショナブルな商品文学にすぎず、これを読んでいい気分になっている読者は『詐欺』にかかっているというきびしい評価を下してきた。私は蓮実の評価に同意しないが、これはこれでひとつの見識であると思う。だが、その見識に自信があり、発言に責任を取る気があるなら、受賞に際しては『スウェーデン・アカデミーは詐欺に騙された。どいつもこいつもバカばかりである』ときっぱりコメントするのが筋目というものだろう。私は蓮実がそうしたら、その気概に深い敬意を示す。≫(ブログ「内田樹の研究室」)
  内田樹蓮実重彦批判は、これはこれで面白いのだが、この内田の文章は、複数の新聞社から「村上春樹ノーベル文学賞受賞のコメント」を求められたが、村上春樹が受賞を逸したために、そのコメントが無駄になったというブログ記事からの引用らしい。蓮実重彦が鋭いのは、こういう、ささやかな記事を発掘し、執拗にテクスト分析した上で、その古臭い文学幻想を暴露する点だろう。そもそもノーベル文学賞は文学の客観的評価とは無縁で、たかだかスエーデン・アカデミーの判断に過ぎない。蓮実重彦は言う。
  ≪いずれもノーベル文学賞が作品の文学的な価値の客観的評価の基準たりうるという何の根拠もない事態を前提している。いうまでもなかろうが、わたくしは、そんな前提などいささかも共有するつもりはない。≫(「随想」「新潮」一月号)
 少なくとも、ノーベル文学賞に関しては、蓮実重彦の言うとおりだろう。ノーベル文学賞を、どの国の、どの作家が受賞したかを騒ぐなら、それを分かった上で騒ぐべきである。



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