文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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小泉毅とラスコーリニコフ


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武器など持参の上、警視庁本部に出頭してきた「元厚労省次官連続殺傷事件」の実行犯と思われる「小泉毅」(こいずみ・たけし)の経歴や人物像が少しずつわかってきたわけだが、その経歴などを見ると、自分のそれとも重なるところがいくつかあり、いろいろと考えさせられる。やはり国立佐賀大学理工系学部中退、コンピューターのプログラマーの経歴は、父親の話によると嘘ではないらしく、少年時代は、理数系に強い、無口な心優しい秀才少年で、反抗期らしい反抗期もなかったというから、どちらかというと、僕が抱いた事件発生直後の高学歴の思想犯らしい犯人のイメージに近いようであるが、それにしてもやはり、この事件は、被害者となった「元厚労省次官夫妻」のことも忘れてはならないわけで、そちらの方も考慮すべきだろうが、しかし申し訳ないが、やはり僕の関心は被害者よりも犯人の方に向かわざるえない。つまり、被害者となった「元厚労省次官夫妻」の人生よりも、やはり実行犯である小泉毅という「男」の人生の問題に向かわざるをえないのは仕方ないことだろう。背後組織があるのかないのか、今の段階ではわからないが、彼が、ここ一週間、あるいは数ヶ月の間、何を考え、何を思い悩んでいたか、そして犯行の実行の直前になって、彼の心の中に、何か大きな決定的な変化があったはずだが、それが何だったのか、ということ等に僕は興味がある。アパートの孤独な部屋で、彼は、一人で、何を考えていたのだろうか。父親に書いたという手紙には、何が書かれているのだろうか。ところで、僕は、今、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいるところなのだが、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフもまた、犯行の直前に、様々な思いに苦しみ、実行に至るまでに右往左往を繰り返している。「僕に『アレ』が出来るだろうか」とつぶやくラスコーリニコフの「アレ」とは、単に「金貸しの老婆殺し」が出来るだろうか、ということではなく、「アレ」とは「皇帝殺し」という政治テロを意味している……というドストエフスキー研究家の清水正日大芸術学部教授等の解釈もあるように、ラスコーリニコフもそして作者のドストエフスキーも、まぎれもなく政治犯であり、過激なテロリストだった。ドストエフスキーは、当時の政治状況を考慮の上、つまり当局の検閲や弾圧を逃れるために、小説のテーマを、「皇帝殺し」という過激な政治テロではなく、「金貸しの老婆殺し」という、一見、凡庸な、何処にでもありそうな殺人事件を代置したのであるが、そうして初めて検閲や弾圧をかいくぐって小説作品として出版できたのであるが、むろん、ドストエフスキーが描きたかったものは、単なる「金貸しの老婆殺し」ではなく、「皇帝殺し」という政治的テーマであり、政治的なテロリズムだった。「小泉毅」による「ペットを殺されたので、その仕返しとしてやった……」という事件の動機の説明を聞きながら、僕は、「小泉毅」が隠さなければならないものが何であるのかを、ラスコーリニコフの例を持ち出すまでもなく、考えないわけにはいかない。「小泉毅」は、自首の直前に、TBS関係のホームページの掲示板に、「今回の決起は年金テロではない!」とか、「34年前、保健所に家族を殺された仇討ちである」とか、あるいは「やつらは今も毎年、毎年、何の罪も無い50万頭のペットを殺し続けている。無駄な殺生をすれば、それは自分に返ってくると思え!」などと書き込んでいるらしいが、「今回の決起は……」という冒頭の文章で、「決起」という言葉が使われているが、この「決起」という言葉が、政治的な何かを意味していることは明らかであろう。さて、以下は、大逆事件のテロリスト達を歌った石川啄木の「ココアのひと匙」という詩である。

われは知る、テロリストの
かなしき心を------
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を-----
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。
はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。


石川啄木(ココアのひと匙)