文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「琉球新報」に寄稿。11月13/14に「大江・岩波訴訟 高裁判決に思う」を寄稿しました。

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「沖縄集団自決裁判」高裁判決について、「琉球新報」から原稿の依頼があったので、「大江・岩波訴訟 高裁判決に思う」というタイトルで書いたのだが、新聞を読んだ「TIDA」さんが、コメントを寄せてくれたので、以下に掲載しておく。内容は、「TIDA」さんの以下のコメントから、ほぼ推察がつくはずである。僕は、この裁判を、左翼/右翼という政治的視点からではなく、どちらかと言えば文学的視点から、つまり文学的表象の側面を重大視しているので、その側面から考察しているが故に、政治思想的立場としては近いにもかかわらず、右翼・保守派の裁判闘争のスタイルに批判的なのである。だからと言って左翼に迎合しているわけではない。曽野綾子は、大江健三郎を批判したかったら、政治思想的にではなく、純粋に文学表象のレベルで闘うべきなのだが、それが出来ないということがわかっているが故に、つまり曽野綾子の小説作品は、大江健三郎のそれの足元にも及ばないことがわかっているが故に、裁判闘争などという「邪悪な戦略」へと突き進んだのだろう、と思う。そして、今、曽野綾子は、才能のない作家が、才能のある作家を貶めようとして、難癖をつけて法廷にまで引き摺り出し、社会的に抹殺しようとしたという点において、そしてその嫉妬と怨恨が動機という内情を暴露されて、今、天下に大恥を晒しているというわけである。文学的思考の脆弱性と欺瞞性に依拠した政治性は、政治的思考としても、マンガ右翼並みに未熟で空虚であることを知るべきである。「沖縄集団自決裁判」を主導してきた曽野綾子の凡庸なる政治的思考はその見本だろう。作家は、作品がすべて……。僕は、大江健三郎という作家の文章を、どの作家の文章よりも高く評価するが故に、左翼のイデオローグ、戦後民主主義のイデオローグであるにもかかわらず、たとえば西部邁等のように時代の流れに乗って転向を繰り返すのではなく、たとえ一人になろうとも、一貫して左翼的姿勢を貫き通す大江健三郎を、「敵ながら尊敬に値する思想的生き方である」という観点から、徹底的に擁護したいと思うのだ。無知蒙昧な、愚鈍な味方からは何も学ぶことはないが、明敏な、一流の才能と思考力を持つ敵からは学ぶことが少なくない。それが僕のポリシーなのだ。

TIDA 2008/11/15 10:35


11 月13,14の琉球新報文化面で山崎先生の論評「大江岩波訴訟 高裁判決に思う」拝読しました。一部保守陣営が、思想的対決や言論闘争を通してではなく、裁判という「邪悪な謀略」を通じて大江氏を貶めようとしていることに、ブログでの論評にも増して鋭く斬り込んだ、痛快無比の読み応えでした。それに比べて地元ジャーナリズム、ぬるま湯につかっているようなたるみ具合ではないか、とすら思えました。曽野綾子を論破した太田氏の名誉回復を、という先生の主張にも強く頷きました。
「沖縄に米軍基地を封じ込めて繁栄を続けている事実に無知のまま、沖縄を旧植民地を見るような「上から目線」で「観光の島」や「癒しの島」としか見ようとしない「本土の日本人」の無知と無神経を許してはならない。」
この一文には敬服するばかりです。沖縄人自身が本土の日本人に阿りがちな心性を克服する努力が必要だ、と痛感しました。
戦後民主主義東京裁判史観を批判する右派は、戦後60年間、日本の戦争犯罪の人身御供となって戦後処理を担ってきた沖縄に対する総括をし、現状の膨大な基地と基地被害の存在をどう認識するのか明らかにした上で、そのような批判を展開してもらいたいものだと思います。東京裁判史観批判をする右派ほど、沖縄の基地強化推進派であり、対米依存肯定派なのは何ともシュールです。・・・と横道にそれましたが、
今後も山崎先生のますます鋭く痛快な論壇への喝を期待しております。
僭越な書き込み、失礼いたしました。