文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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佐藤優の「私のマルクス」最終回を読む。

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「文学界」に長期連載中であり、すでに前半部分は『私のマルクス』として刊行されている佐藤優の「私のマルクス」(「文学界」12月号)がついに最終回を迎えたようであるが、今、あらためて振り返ってみると、その連載中の間、逆説的に言えば、この「私のマルクス」が、まさしく文学とは無縁であるかのように見えるが故に、実は、唯一、文芸雑誌の文芸雑誌たる存在根拠たりえたように思えてならない。言うまでもなく、文芸雑誌は、本来、小説や文芸評論が載っていればそれで充分ということにはならない。少なくとも我が国の文芸雑誌の役割は、文学の専門雑誌でありながらも、その内容は、決して文学や批評に留まるものではない。哲学や政治や、その他、あらゆる知的、思想的ジャンルに手を広げ、それらを強引に取り込むか、あるいはそれらとの刺激的な知的交流を続けていくところに、文芸雑誌の怪しい魅力と存在根拠があったはずである。近代日本文学の誕生以来、文学や文芸雑誌に不可欠のテーマとして、「政治と文学」というテーマがあるように、とりわけ、文芸雑誌は「政治」というものと無縁ではありえない。しかし、最近、「近代文学の終わり」や「小説の終わり」が言われ始めると同時に、あるいは小説を筆頭に本が売れなくなっていくと同時に、文芸雑誌は、「政治」や「思想」から離れて、もっぱら文芸だけを相手にするマイナーな「文芸専門雑誌化」への道をひた走っているように見える。そうした中にあって、一見、場違いとも思われる「私のマルクス」の連載は異色であり、また刺激的であったと言わなければならない。マルクス論と言えば、「群像」を中心に掲載された柄谷行人の「マルクスその可能性の中心」を初めとする一連のマルクス論があるが、柄谷行人は一応、文芸評論家という肩書きを持っているのに対し、佐藤優は、「作家」という肩書きはあるにしても、いわゆる純文学的な意味での「作家」とは少し違うわけで、その場違いな佐藤優であるが故に、この「私のマルクス」は、ジャンルの横断化という観点からも、文芸雑誌にとっても重要だったのである。
さて、浦和高校時代にソ連、東欧圏を旅行するところから始まった「私のマルクス」だが、その最終回は、同志社大学神学部を経て外務省に就職した佐藤優が、ソ連駐在の外交官として、直接間接、身近に見聞したソ連の崩壊・解体の政変劇とそれ以後を、佐藤優の個人的体験を絡ませながら描いている。特に印象的なのは、エリツィン革命とも言われるこのソ連解体の政変劇が、ソ連国内の「民族問題」、とりわけ「反共主義的な自民族中心主義」の運動が決定的な力として働いたと、佐藤優が分析しているところだろう。むろん、それは、佐藤優が、現在、取り組んでいる「沖縄論」や「アイヌ論」とも無縁ではなかろう。さて、最後は、佐藤優が、モスクワ大学哲学部で、マルクス主義の講義を依頼されるところで終わっている。ちょっと長いが、感動的な一幕なので、そのまま引用しておこう。

「今日、ここで話したマルクスに関する話をしてほしい。初期マルクス疎外論の話、日本人独自の『資本論』の読み解きについてだ」「モスクワ大学哲学部にはマルクス主義については僕より詳しい教授が何人もいる」「その殆どが反共政治学者になった。あるいはマルクス主義者だった過去について頬被りして、実証研究を行なっている。あるいは時代錯誤、旧態依然としたソ連時代の理論を繰り返している。すべての学者に共通しているのが自信を喪失していることだ。」(中略)「わかった。やってみる。しかし、ソ連崩壊後のロシアで、かつてマルクス・レーニン主義の理論的中心であったモスクワ国立大学の哲学部において、資本主義国の外交官である僕がマルクスについて講義するのか」「それが歴史の弁証法だ」と言ってセリョージャは笑った。そして、「ファシズムに対する耐性をつけるためには知的訓練が必要だ。その意味でマルクスの遺産が必要だ」と言った。セリョージャが言うとおり、もう一度マルクスへ立ち返る必要があると私は思った。早速、次回から大学の講義で、初期マルクスの宗教批判や、宇野弘蔵の経済学方法論の紹介を行おうと思った。家に着いたのは深夜の一時過ぎだったが、本棚から、新潮社版の『マルクス・エンゲルス選集第一巻 ヘーゲル批判』と『宇野弘蔵著作集第九巻 経済方法論』を取り出し、私は講義ノートを作り始めた。<完>(佐藤優「私のマルクス」「文学界」12月号)

この場面は、江藤淳の『アメリカと私』を彷彿とさせるが、佐藤優のこの文章もまた、まことに知的刺激に満ちており、「ファシズムに対する耐性をつけるためには知的訓練が必要だ。その意味でマルクスの遺産が必要だ」というセリョージャの台詞とともに、記憶に残る感動的な場面と言葉だろう。


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