文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

佐藤優が小林よしのり批判を……「日刊サイゾー」を初めて読む。

にほんブログ村 政治ブログへ■コメント欄■


「月刊サイゾー」は、以前、言論弾圧についてのテーマでインタビューを受けたこともあるので、よく知っているつもりだったけれども、昨日まで「日刊サイゾー」のことは、まったく知らずに来たわけだが、「小林よしのり佐藤優論争」をめぐる記事を探すうちに、「日刊サイゾー」のHPに突き当たり、そこに佐藤優に対するかなり長い、本格的なインタビューが掲載されていることを発見、しかしよく見ると、これは雑誌「月刊サイゾー」の記事の再録かと思ったら、そうではなく、まったく別の、「日刊サイゾー」にしか載っていない記事であることがわかり、はじめて「日刊サイゾー」が「月刊サイゾー」と無縁ではないだろうが、少なくとも「日刊サイゾー」が「月刊サイゾー」から独立した、独自のメディアであることがわかり、興味を持ち始めたところだ。おそらく編集やインタビューなどのスタッフは両方掛け持ちなのだろうが、「月刊サイゾー」では、情報の速度が、あくまでも「月刊」ペースであり、最新情報や、あるいは重要な情報の続報は当然、一ヵ月後ということになり、読者に届く速度はかなり遅くなるということから、雑誌形式ではないが、web版としての「日刊サイゾー」の創刊ということになったのだろう、と推察する。ところで、「月刊サイゾー」の記事の中で面白く読んだのは、宇野常寛更科修一郎の対談「サブルチャー最終診断」における最近の雑誌の「廃刊ラッシュ」にまつわる分析と批評で、いろいろ教えられることばかりだったのだが、宇野常寛と言えば、「新潮」に江藤淳論を連載開始した「あの人だな」というわけで、さっそくその一部をコピーして、大学の授業で使わせてもらったのだが、二人の対談は、雑誌廃刊ラッシュの持つ文化革命的意味や、消費者としての読者による反乱が引き起こす雑誌廃刊ラッシュという意味で、柄谷行人の「アソシィエィション」論とも無縁ではないわけで、「雑誌メディア論」としても新鮮な印象を持った。「最近の若者は本を読まない」というのが定説だが、「本を読まないこと」「本や雑誌を買わないこと」、そしてその結果としての雑誌の廃刊ラッシュ、あるいは逆な現象としての雑誌創刊ラッシュの歴史的意義を、もう少し肯定的に、あるいは内在的に分析してみる必要があると、あらためて痛感した。雑誌廃刊ラッシュに関する学生のレポートを見ても、中高年のオヤジたちしか読まないような高級オピニオン雑誌の類を、ほとんどの学生が読んでいないことがわかったが、僕は、やはり彼らが、「読まない」「買わない」……そういう雑誌の内容と思想的レベルにこそ問題はあるだろうと思う。さて、「小林よしのり佐藤優論争」だが、本誌たる「月刊サイゾー」の記事は、わずか一ページで、簡単な内容で、立ち読み可能な分量なのだが、しかし、「日刊サイゾー」における「佐藤優ロング・インタビュー」は、まさにタイトルが示しているように、かなり長い、突っ込んだ内容のインタビューになっている。僕は、最初、これも「月刊サイゾー」にも載っているのかと思って、隅から隅まで探してみたのだが、何処にも見当たらない。それもそのはずで、このロングインタビューは「日刊サイゾー」だけのインタビューだったのだ。それでやっと「日刊サイゾー」なるものの存在に気付いたわけである。さて、「佐藤優ロング・インタビュー」に戻ると、佐藤優は、ここで、本格的な「小林よしのり論」、ないしは「小林よしのり批判」を展開している。佐藤優小林よしのり批判のポイントが何処にあるのかを知るためにも、以下にその記事の一部を引用しておこう。


●「日刊サイゾー」記事
http://www.cyzo.com/2008/10/post_1093.html
http://www.cyzo.com/2008/10/post_1094.html

●「月刊サイゾー」記事
http://www.cyzo.com/2008/10/post_1092.html

──9月30日現在、「SAPIO」編集部との話し合いはどのような状態ですか?

【佐藤】 手紙でのやり取りをしています。編集部との具体的なやり取りについては、現段階ではノーコメントです。

──「週刊SPA!」しか読んでいない読者からすれば、佐藤さんと小林さんの間に何が起こっているのかよくわからないかもしれません。

【佐藤】 それでいいのです。「週刊SPA!」(9月23日号)で私が書いた記事は、あくまでもフィクションですから。

 私が「週刊SPA!」で書いたことの一つは、編集権の問題です。雑誌にはいろいろな長期連載があります。Aという長期連載者が、Bという別の長期連載者が書いているものはデタラメだと論評している。Aさんの言うとおりだとすれば、Bさんというデタラメな人に長期連載を書かせている雑誌編集部の責任はどうなるのか。こういう問題です。

──小林さんは「SAPIO」(8月20日・9月3日合併号)で3ページを使って佐藤さんの批判をしています。佐藤さんも「SAPIO」に3ページを要求し、「SAPIO」誌上で小林さんに反論する手もあったのでは?

【佐藤】 私は、今回の一件を「論戦」とは意識していません。論戦には二つの条件があります。一つは争点を明示していること。それから、相手に対する最低限の人間としての礼儀があること。この二つが小林さんには欠けている。論争以前の問題なのです。論争以前の問題であるのに、それをあたかも論争であるかの如き扱いで「SAPIO」編集部は掲載した。最初から論戦になっていないわけですから、小林さんが問題なのではない。編集権はいったいどうなっているのか、ということについて私は問うているわけです。

──佐藤さんは敢えてフィクションという形で応えたわけですが、正面から小林さんと論争はしない?

【佐藤】 論争にならないのです。繰り返しますが、「SAPIO」の記事の、どこに争点がありますか? 例えば小林さんは、≪佐藤は、ただただ、自分を「いい人」、わしを「悪い人」と印象操作したいだけなのだ。≫と言っています。私がどこでそんなことを言ったというのでしょう。私の発言を要約していたとしても、これでは要約不適当です。

 それから、マンガの欄外で小林さんは≪わしが沖縄を論じる目的が「金と地位」と佐藤は言うが、生憎わしはその両方とも現状に不満はない。≫と言っている。カギ括弧でくくっているわけですから、「金と地位」とは私の発言の引用なのでしょう。私がいったいどこで、小林さんが沖縄を論じる目的が「金と地位」だと言ったのか。私はそんなことを一度も発言してはいません。

 相手の言ったことを正確に引用する。正確に要約する。そのうえで、争点を明示する。こうした論戦の基本すらできていないわけですから、そんなものは論戦以前の話なのです。論争など、どこにも存在はしない。

 繰り返しになりますが、私が「週刊SPA!」で訴えているのは編集部の姿勢、編集権の問題はどうなっているのか、ということです。小林さんは、私に関してデタラメなことを言っている。そういう記事を、何ゆえに編集部が読者に見せる必要があると考え、掲載する価値があると考えたのかということです。

「『ゴーマニズム宣言』は『SAPIO』誌上において治外法権化しています」と編集部が認めるのであれば、私だって編集権云々とは言わないわけですよ。「ゴーマニズム宣言」が治外法権化しているのであれば、「SAPIO」は編集権のない2ちゃんねると一緒だということになりますからね。

 小林さんは「SAPIO」誌上で、私の言説を「デタラメ」だと言っている。その私は、「SAPIO」に長期連載をもっている。ウソ記事を書くような人間の連載を放置しておくようであれば、「SAPIO」編集部の責任が問われます。しかも私が「SAPIO」で書いている連載は、デタラメやウソが混じっていてはいけない国際情勢分析です。「SAPIO」編集部は、読者との関係においてどう説明責任を取るのか。

──あくまで編集部の姿勢が問題なのであって、小林さんと佐藤さんの間で論戦が起きるような性質の問題ではない。

【佐藤】 その通りです。論戦には争点の明示が必要です。論争をしたい側は、争点を明確にしなければならない。そのうえで、相手に対する人間としての最低限の礼儀がなければならない。この二点が満たされていないものに関して、私は論戦を行ないません。

 それから小林さんは、私が現在係争中の刑事裁判に関して≪呆れた話だ。「国策捜査」で罪をでっち上げられたと言ってる奴が、人に濡れ衣を着せている! こいつの無実の訴えなど、二度と信じてやるものか!≫と言っている。沖縄問題に関する小林さんと私の見解の相違と、私の裁判の無実・有実との関係がいったいどこにあるというのでしょう。


──マンガだから、多少行き過ぎた表現があっても許されるということにはならない。

【佐藤】 政治問題を扱うマンガだからこそ、厳密に詰めなければいけないのです。

──「週刊SPA!」の特別企画「インテリジェンス職業相談」で佐藤さんは、「ラスプーチン」さんや「大林わるのり」さんからの質問に応えるという寓話的手法を使いました。「インテリジェンス職業相談」の続編を掲載する予定はありますか。

【佐藤】 あるかもしれないし、ないかもしれない。今の時点ではなんとも言えません(笑)。重要なのは、読者がおもしろがってくれるかどうかです。

 小林さんは今年春、≪本土の知識人には馬鹿な奴がいて、「沖縄の心ある人には、独立論を唱える人もいる」などと書いていたりする。≫(「わしズム」2008年春号)と言っています。このコメントの背景には、私の顔写真が入った雑誌記事が載っている。名指しではありませんが、私の顔写真が入っているわけですから限りなく名指しに近い。その次の段階として、今度は「SAPIO」で私を名指しして撃ってきた。

 最初に撃ってきたのは向こうだ。西部劇の世界と一緒で、最初に撃ってきた人間には責任があるのです。それならば、こちらとしてもそれなりの礼儀をもって応えるだけの話だ。つまり、無礼なことには無礼なことで対応する。やられた範囲のなかでやり返す。これが私の主義です。

──ケンカの作法として、やられたことはそれ相応にやり返す。

【佐藤】 そういうふうに考えます。相手が無礼な形で撃ってくるのであれば、こちらも無礼な形で応える。言論に対してマンガという非対称な形で撃ってくるのであれば、こちらはフィクションという非対称な形で応える。もし向こうが論戦をしたいと言ってくれば、論戦以外の形で応える。非対称なことをやってくる人には、全部非対称で応えていこうと思っています。ただ、ここで重要なのは遊び心です。読者にとっておもしろいことが重要なのです。

(2008年9月30日取材/構成=荒井香織/後半へ続く)