文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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東浩紀は文壇・論壇の「救世主」たりうるか?

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久しぶりに「中央公論」(11月号)という雑誌を読んだのだが、これが、なかなか面白い企画のオンパレードで、僕は興味深く読んだのだが、中でも筒井康隆楊逸(ヤン・イー)の対談、あるいは東浩紀のインタビューが刺激的だった。いずれも文学や文学者に関連した内容で、最近の文壇・論壇の貧しい思想的状況の根本原因の解析になっているように思われた。ここでは、まず東浩紀のインタビューを取り上げてみよう。東浩紀は、ジャック・デリダ論でデビューし、最近は、オタク文化ポストモダンを結びつけ、それを日本文化論として論じた『動物化するポストモダン』と『ゲーム的リアリズムの誕生』などの著作で、文壇・論壇とその周辺に大きな反響を巻き起こしている文藝評論家・思想家だが、そしておそらく、文壇でも、柄谷行人以後の批評界に現れた大物新人として、彼に期待する向きも少なくないだろうが、このインタビューもそれを前提にしているわけだが、このインタビューを読むまでもなく、東浩紀の限界は明らかだと僕は思う。東浩紀の『動物化するポストモダン』と『ゲーム的リアリズムの誕生』における現代日本社会の文化分析は、若者達を中心に異常な売り上げを示している「ライト・ノベル」というジャンルの小説を肯定的に論じ、文壇に少なからぬ衝撃を与えることに成功した例が示すように、なかなか鋭く、啓蒙的には刺激的ではあるが、しかしその分析の思想的深度と批評的思考力いうことになると、たとえば『構造と力』で一世を風靡した浅田彰の例を持ち出すまでもなく、あくまでも情報と知識レベルの人だと判断せざるをえないように見える。それは、東浩紀の実作として発表された小説『キャラクターズ』のつまらなさが、つまり東浩紀の言語感覚、文体感覚の欠如が、象徴的に示している。言い換えれば、分析の図式や道具を提供するだけの情報や知識は豊富だが、それらの図式や道具を使って思考し、文章化するという、具体的な実践のレベルでの能力の不足と欠如は明らかであり、つまりその思想や理念を、具体的な作品として読者の前に提供するだけの思想的肉体性の保持者ではないように見える。東浩紀は、悪い意味で、ここ10年ぐらい、文芸誌で珍重されてきた、いわゆる「社会学者」的である。そこには厳密な意味での作品を作り出すべき自己言及的な「批評」がない。東浩紀も、≪これまで小林秀雄以来、吉本隆明柄谷行人ら批評家は、狭義の文学にとどまらず、哲学的なエッセイなども書いていて、ある種の知的伝統を担ってきました。……≫というインタビューアーの問いに対して、≪僕自身もその伝統のうえで仕事をやつているつもりです。/日本ではヨーロッパとは違う形で知は編成されてきた。その中で批評とは何かと言えば、各時代の大衆文化と抽象的な知を媒介する回路としてあったわけです。それは大学的な知とは別に発展したものです。そうしたあり方としての「批評」とは、じつはヨーロッパやアメリカには対応物がない。日本が独自に作ったものです。/だからこそ、その回路を更新していかなければならない。僕自身はその作業を愚直に行っているにすぎない。新しい批評を、文学的伝統に対立させるのは無意味です。≫と言うが、東浩紀の文体や言葉は、小林秀雄柄谷行人の批評の文体や言葉に対抗できているだろうか。