文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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柄谷行人「『「蟹工船』で文学は復活しない。」……

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柄谷行人が久々に「文学界」の座談会に登場して、黒井千次、津島祐子を相手に、最近、突然変異のように爆発的に売れ始めた「蟹工船」や「カラマーゾフの兄弟」新訳の「売れ方」や、あるいは秋葉原通り魔殺人事件等について、文学や文壇情勢と絡めながら、情況論的な興味深い発言を繰り返している。たとえば秋葉原通り魔殺人事件に際して、文学者があまり発言しなかったことについて、その理由は、≪それは、たぶん、彼らが(文学者)があえて黙ったのではなく、意見を求められなかったからでしょうね。≫と言った後に、こんな分析を行っている。≪昔だったら、小説家や劇作家が意見を求められたでしょう。(中略)こういうことを理解するのに、昔だったら劇や小説を通したと思う。というより、作家の方が先に事件を予言するような作品を書いていたと思う。しかし、今や、コメントを求められることさえない。≫と。最近の文学や文学者について、別に目新しい意見や解釈を述べているわけではないが、やはり柄谷行人が言うと、それなりに意味があるように思う。秋葉原通り魔殺人事件については、柄谷行人は、エドワード・オルビーの『動物園物語』を例にとって、次のように分析している、≪1960年代にエドワード・オルビーの『動物園物語』という芝居を観ました。登場人物は、ニューヨークの動物園の前のベンチに座った二人の人物だけ。一人の男が、もう一人の人物を挑発し怒らせて、自分をナイフで刺させる。すると男は「ありがとう」と言いながら、死んでいく。人とつながることができるなら、刺し殺されてもいい、という極限的な疎外状況が描かれていた。僕は、こういうのが文学だと思う。/この前の秋葉原通り魔殺人でも、この『動物園物語』なんかを参照したらいいのではないか。あの犯人は、ナイフを買いに行った店の店員に親切にされたのがうれしかったらしく、二度引き返してまで、店員となにげない会話を交わしている。それでケータイのサイトに、「人間と話すのっていいね」とか書き込んでいるそうです。あの人物は他人を殺しているけれど、いわば殺されに行っているわけでしょう。≫実は、エドワード・オルビーの『動物園物語』の話は、柄谷行人の文壇的デビュー作である「意識と自然」という夏目漱石論(「群像」新人賞受賞作)でも引用されていた話で、柄谷行人が文壇デビュー以来、一貫して同じような問題を追及し続け、しかも未だにその種の問題を手放していないことがわかるわけだが、僕は、柄谷行人秋葉原事件の分析を読みながら、事件の分析の中身よりも、むしろ柄谷行人が、こんな事件に、かなり深い関心をもっているらしいことに、ちょっと驚いた。さて、柄谷行人は、文藝ジャーナリズムの中でも話題になっている「蟹工船」の流行についても、独特の批判的解析を試みてる。≪僕の考えでは、「蟹工船」のブームは、それこそ、近代文学が終わったということを証明しているようなものですね。また、それは、文学の復活にもならないし、政治的な実践の復活にもならないだろう、と思います。≫と。柄谷行人によると、「蟹工船」のような小説は、近代文学以前の小説の復活であり、たとえば明治10年頃には、自由民権運動プロパガンダとしての政治小説が多く書かれたが、近代文学とは、まさしくそういう自由民権運動的、あるいは政治小説的、あるいは滝沢馬琴的な勧善懲悪的小説への批判として出てきたのが「日本近代文学」だ。とすれば、「蟹工船」ブームは、勧善懲悪的な小説への逆戻りという意味しか持たない。そもそも「蟹工船」とは、政治的実践活動から離れ、ひたすら内面化した「近代文学」的なものへの批判として政治的実践運動が、共産党ないしは共産主義の運動として、あるいはプロレタリア文学の運動として出てきた政治的プロパガンダ小説の一つである。そして共産主義プロレタリア文学の挫折の後に、再び近代文学としての戦後文学が復活する。だから、「蟹工船」ブームは近代文学とは関係ない。柄谷行人は、こう言っている。≪あんな「勧善懲悪」の論理で資本主義を理解できるわけがない。売れているらしいから、みんなが読むということであるなら、それ自体が資本主義なだけです。≫たしかに柄谷行人の分析は、興味深い。「構造改革」を唱えて暴走した小泉純一郎が総理の椅子を去り、その理論的実戦部隊だった竹中平蔵が政界を去り、やがて小泉までが突然の引退声明……というこの時期に、急速に市民化した流行思想に「新自由主義批判」や「市場原理主義批判」、あるいは「構造改革批判」があるが、それらの批判の根拠になっているのは「格差社会」論や「ワーキングプア」論であるところを見ると、その批判の論理の中に、柄谷行人の言う「勧善懲悪の論理」が入り込んでいることは明らかだろう。