文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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秦郁彦論文の「誤謬」と「隠蔽」について。……読者からの投稿より。

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阪高裁に「証人申請」を却下された秦郁彦だが、その代わりというというわけでもないだろうが、秦郁彦論文(「諸君!」2月号)の方は高裁に証拠資料として採用されたようである。ところで、その秦郁彦論文だが、いろいろと問題のある論文であることがわかっているが、ここでは、一読者(「和田」氏)からの投稿(コメント欄http://d.hatena.ne.jp/yama31517/)を、かなり重要な指摘を含んでいると思われるので、参考までに、以下に、そのまま転載・引用しておく。

和田
2008/07/03 14:24


虚偽に満ちた秦郁彦の書証
承知のとおり、沖縄戦裁判控訴審で控訴人は秦郁彦の「諸君2008年2月号」論文を書証として提出することになったようです。
しかしながら、この論文は渡嘉敷島の集団自決に関する基本的事実について明らかな事実誤認と隠蔽を記載し、それらに基づいて恣意的結論を導いたものといえます。


事実誤認について
? 「諸君2008年2月号」71ページ「付図1」に記載された恩納河原の位置は標高234メートル赤間山より北西にあるとされ、留利加波方面に上陸した米軍の真東に描かれている。標高208メートルの御嶽が本来の北山(西山)であることはさておき、(最近では地元サイトにおいても赤間山をも西山と表記しているものがある)恩納河原はA高地の西の谷に位置していることは現地の地図などから疑いないところ。下記でも恩納河原の東にA高地は非常に小さな字で書かれている。
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu02.pdf
間違っても赤松が危険な場所にいた島民を安全な場所に移動させたのではないことが分かる。


? 同じ71ページには、「ところで島民のまとまった集団自決は3月27日夜半と28日の正午前後に二箇所(付図1の第1、第2自決現場)で起きたのはたしかだが」と記載されている。
しかしながら、各種証言、住民の移動状況から最初の自決が始まったのは3月28日正午から午後2時の間である。3月27日夜半に、島民は赤松の本部陣地近くに集結し新城兵事主任を本部に連絡に行かせ「本部北方の西山盆地に移動せよ」との命令を受けたが深夜であるので就寝し、翌28日7時頃から西山盆地へ移動し集団の移動がほぼ終了したのが午前10時と考えられる。
また、第2自決が始まった時間帯については、ニューヨークタイムズ記者の記事と「ある神話の背景」に記載された赤松隊の「陣中日誌」がそれぞれ「米軍が野営した頃」「午後6時頃」に手榴弾の音や阿鼻叫喚があったとされ翌29日朝米軍は自決未遂者を収容している。
秦は自決時間を早めたいようだ。
? 同じく71ページには、「安里巡査が島民の避難場所を相談すると、赤松は軍の背後にあたる西山地区の谷間が良かろうと勧めている。そのあたりは村役場が以前から隠れ場所と想定していた地点でもあり、すでに一部の島民は避難小屋を建てていた」との記載がある。
しかし、この記載は事実に反する。実際には古波藏村長等はA高地の西側反対斜面に位置する恩納河原を隠れ場所と想定し、そこに逃れていたのを赤松から西山盆地(又はとりあえず本部陣地)へ呼びつけられたのである。(当初から西山盆地を指定されていたのか、とりあえず本部近くまで来いという命令だったかはさまざまな証言があり、確定することは困難である)当初村民の多くは恩納河原に隠れ、恩納河原は谷間で見つけにくい安全な場所であったことは、「ある神話の背景」安里巡査証言にも書かれている。


隠蔽
付図1で慶良間列島米軍上陸地点が11箇所記載されている。ところが渡嘉敷島日の留利加波方面及び渡嘉敷部落への上陸日時が抜け落ちている。留利加波上陸の日時について資料がないわけでなく「ある神話の背景」では27日午前、戦史叢書では27日午前と(赤松隊は)誤認したが実際の上陸は27日午後であったと記載されている。


恣意的結論
以上の操作をした上で秦は「諸君2008年2月号」73ページで次のように結論づける。
「さて以上のような諸証言とくに傍線の部分を見るかぎり、赤松隊長は島内でもっとも安全と思われる場所への避難を助言はしたものの、・・・・」


「ある神話の背景」では、赤松が3月26日午後10時に安里巡査と会談した記憶があるとしているが、安里巡査を含め、すべての証言は安里巡査が3月27日夕に赤松隊長と会談し安里巡査等が島民の壕を探して命令を伝えたとしている。その点に関しては、「ある神話の背景」以外に例外は存在しない。そして「ある神話の背景」によれば赤松と安里は「従民を捕虜にしない」という動機から住民に対して集結命令を出している。
27日夕、赤松により、多くの住民に対して安全な恩納河原から、27日午前に米軍が上陸したと(赤松隊に)認識された留利加波に近い本部陣地北方の西山盆地への移動命令が出たのである(あるいは27日夕本部陣地への第一次集合命令が出て27日未明、本部近くへ集合した島民の代表として新城兵事主任が陣地の赤松へ具体的な異動先を問い合わせると陣地北方の西山陣地への移動命令が出た)。赤松は、村民が米軍に挟撃される危険性を認識していたが、捕虜になるより良いと考えたのは確実であり赤松隊長が島民に島内で安全と思われる場所へ避難を助言した事実はない。
秦は自決に関して基本的な空間的・時間的事実すら誤認又は捏造している。


以上、秦論文は恣意的な結論を導くために事実をねじ曲げているもので、およそ学者の名に値しない内容である。

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