文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

僕の「ブログ進化論」を説明しよう。

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年配の人たちや、一部だとは思うが若い人たちの中にまで、未だにネットやブログ、掲示板、メールマガジン等、というような「思想表現」の新しいツールに対して、生理的に反発し、それを犯罪や悪徳の温床のように考え、ある場合には、何を勘違いしたのか、雑誌や新聞などの既成メディアでの「思想表現」が不可能だから、つまり雑誌や新聞等で活躍するほどの才能がないから、仕方なくネットやブログ等に「依存」しているのだろう……という人までいるようだが、そういう人は意外なことに、ネツトやブログを自由に使いこなしていると思われている若い世代に多いのだが、正直のところ、若い世代の一部からの、そういうネツト批判やブログ批判の多くは、ネツトやブログを自由に使いこなしている「仲間」や「身内」への嫉妬や妬みを動機としているように見えるわけで、それらに対しては、僕としては返すべき言葉もない。少なくとも、僕にとっては、ネットにしろブログにしろ、かなり便利な、そしてきわめて有効な思想表現のツールであって、これを充分に使いこなして、自分の思想表現の基本的なスタイルの一部にしたいというのが、僕の「ブログ進化論」のすべてである。ところで、今回のアキバ事件に関しても、ネツトやゲームに、犯罪と狂気の理由を求める識者(老人)が少なくないらしく、「週刊ポスト」(7/11)の記事を見ると、「日本人の『共感性』に異変が!」「第二のアキバ殺人鬼を生み続ける『脳内汚染』11年目の発症爆発」というタイトルの横に、「小学時代の『過激なゲーム』で後悔しない脳に」「中学・高校時代の『ネット中毒』による前頭葉機能の低下」「大学生で直面する『負け組』恐怖」「そして脳に仕掛けられた『時限爆弾』炸裂で、悪夢は止まらない」……等と、脳科学者や精神科医、文化人などを動員して、とんでもない似非科学的な活字が躍っている。要するに、ポイントは、犯人の加藤某の世代は、「ネット中毒」と「ケータイ依存」で、「脳内汚染」され、その結果、前頭葉の機能低下を招き、他人の痛みに疎い脳が形成され、したがって暴力性の爆発しやすい世代だということになる。柳田邦夫にいたっては、「ノーメールデー」を作れ……と大真面目に提唱している始末である。まことに解りやすい原因の説明で、説明する人も、聞く人も、これで、さぞや、すっきりした、快適な気分になるのであろうが、言うまでもなく、すべては噴飯物である。鉄道や電気の登場、あるいはラジオやテレビの登場、あるいはもっと素朴に印刷機の登場や鉛筆や万年筆の登場……など、数えればきりがないが、要するに新しい文明のツールが登場するたびに、繰り返されてきた議論である。こういう反時代的な議論を無視する必要もない代わりに、ことさら評価する必要もない。他人や若者にお節介をする閑があったら、自分のことを考えてくれ、というしかない。ネットやケータイを使いたくなければ使わなければいい。電気もテレビも新聞も、要するに何らかの形で脳内汚染は不可避だから、脳内汚染が心配だったら、山の奥深くに引っ込んで、あらゆる文明を拒絶して、一切を見ない、聞かない、使わないで、素手で何物にも依存せず生きていけばいい。出来るならば……。それだけのことである。さて、以前にも、書いたことだが、僕は、このブログを開設するに当たって、「戦後思想の巨人」と言われる吉本隆明の「雑誌メディア論」を参考にしている。つまり吉本隆明が、既存の雑誌メディアに対して、「試行」という「自立メディア」を対置し、思想表現の「自由」を確保した例である。僕は、学生時代、大手の「取次ぎ」のような既存の流通ルートに頼らないで、人海戦術で書店の店頭にうず高く積まれた、いわゆる「自立メディア」としての「試行」を、毎号、買って読んでいた。巻頭にある「情況への発言」を読むためであった。吉本隆明の「情況への発言」は、実に過激で、辛辣な情況論であり、そこには中途半端な読者なら、ただちに目を背けたくなるような激しい罵倒の言葉が氾濫し、その代わり、快刀乱麻のごとき切れ味の鋭い、生き生きとした個人攻撃的言説で埋め尽くされていた。言い換えれば、そこには、既成メディアの「商業主義」も、既成メディの自己規制によって保持されている「上品さ」もなかった代わりに、荒々しく、且つ生き生きとした言論空間が確立されていた。吉本隆明は、その「自由な……」、そして既存の商業雑誌や商業ジャーナリズムから見れば、ある意味では「下品な……」この上ない言論空間を、「自立メディア」として確立することによって、『言語にとって美とはなにか』『心的現象論』等の吉本隆明の主著を、つまり既存の雑誌メディアならば、決して受け入れてもらえないだろうような原理論的、本質論的な長編評論を、次々と完成させて行ったのである。言うまでもなく、これらの大長編評論に込められた吉本思想と、自立メディアとしての「試行」の刊行の関係性が、切っても切れない関係にあることは間違いない。ところで、僕が、最初に読んだ吉本隆明の論文は、「展望」に載った「戦後思想の荒廃」とかいう評論だったが、そこで僕は、目の覚めるような斬新な大江健三郎批判や石原慎太郎批判を読んだのである。そして最初に買った本が、「戦後思想の荒廃」を含む『自立の思想的拠点』だったが、その中に収録された「情況とはなにか」というような「試行」に掲載された荒々しくも、みずみずしい情況論的雑文に注目し、そしていつの間にか、夢中になって読んでいたのである。僕は、こうして熱心な「試行」の読者になったのである。保守・反動は自認しながら、僕は、もつとも純粋で過激な左翼思想の牙城たる「試行」を誰よりも熱心に、読んでいたのである。ところで、余談だが、僕は、一度だけだが、吉本隆明の自宅まで押しかけて行ったことがあるが、あいにく、吉本隆明本人は留守だったが、僕にとっては、かえってよかったのかもしれない。僕は、当時は、まだ単なる読者で、吉本隆明を相手に話すべき何ものも持ってはいなかったからである。ともあれ、吉本隆明は、ほぼ手作りと言っていい、言い換えれば、同人雑誌レベルの装丁の「試行」によって、既存の雑誌メディアでは不可能な、多くの読者を掴んでいた。今から考えると、あるいは当時でも、夢のような話である。したがって、吉本隆明という「一民間思想家」の前では、東大教授や売れっ子の評論家なども、皆、ことごとく馬鹿か間抜けにしか見えなかったが、それは僕の勘違いでもなく、確かにその後の歴史が証明する如く、実際的に彼等は思想的には、ほとんど馬鹿か間抜けであった。今頃になって、そういう輩が、愚にもつかないような、そして吹けば飛ぶような数少ない学問的業績とやらを鼻にかけて、本格的な保守思想家である江藤淳三島由紀夫のいなくなった保守論壇に潜り込み、寄生した挙句、そこで無知蒙昧な若者達に向かって大きな顔をして説教を繰り返している老人達が何人もいるが、馬鹿馬鹿しいので、いちいちその名前を挙げないが、彼等はことごとく、吉本隆明江藤淳、あるいは三島由紀夫などの前では小児に等しい輩であって、その彼等がいっぱしの保守思想家ヅラをして、保守ジャーナリズムや保守論壇の界隈を徘徊し、「あれには書かせるな」「あれに書かせたら雑誌は買わない」……とか言って、こそこそと隠微な言論弾圧に励んでいるなんて、まったく世も末である。反論や異論があるなら、堂々と言論で戦えばいいじゃないか、それが思想家、あるいは学者というものだろう、と思うのだが、実は言論や論争こそ、彼等がもっとも恐れるものなのだから始末が悪い。「あれには書かせるな」「あれに書かせたら雑誌は買わない」……それは、愚かな三流学者や三流思想家が、いつの時代にも、裏でコソコソと談合し、囁いていることであって、だからこそ、彼等の陰険姑息な言論統制的策謀の裏に隠された「上品さ」や「美徳」という権力的美辞麗句や言論装置を打ち砕いて、権力・体制側から見れば「下品で……」「自由な……」言論空間を確保すべき「自立メディア」が必要なのである、と吉本隆明は考えたのであろう。ニーチェは、『道徳の系譜学』で、「道徳」というものの由来と起源を分析し、道徳こそが「弱者のルサンチマン」だと、つまり「弱者の復讐願望」に由来することを突き止め、それを徹底的に批判したが、今は、「美徳」や「品格」、あるいは「上品さ」という美辞麗句に潜む「思想統制」や「思想管理」、あるいは「言論弾圧」という隠された野望を暴き出し、徹底的に批判すべきなのだ。要するに、ここで、僕が何を言いたいかというと、その「自立メディア」として、今、僕は、カネも時間もかけずに、誰でも容易に出来るネツトやブログ、メルマガがあるということを言いたいのである。吉本隆明が試みた「試行」のようなマイナー系雑誌の刊行もいいかもしれないが、しかし、財政的基盤を他者に依存しているようなヒモつきの雑誌なら、やっても、結局、商業雑誌と同じであって、雑誌を出す意味はない。また、何処からか、「あれには書かせるな」「あれに書かせたら雑誌は買わない」……という声が聞こえてくるのがオチである。さて、僕は、ネツトやブログ、メルマガを目の仇にしている「上品な……」老人達や、あるいは目の覚めない一部の「頑迷固陋な……」若者達には、何も言うことはない。「奴等には言わせておけ、俺は俺の道を行くだけだ……」(マルクス資本論」)。



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