文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

馬鹿学者は黙ってフィールド・ワークでもやってろよ。


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小林よしのりが、マンガで沖縄問題を考えるしか能のない沖縄在住の似非文化人とドシロートを集めて作ったお粗末な本、いわゆる新刊の座談会本『誇りある沖縄へ』で小生(山崎行太郎)を批判している部分は、つまり第五章の「『沖縄ノート』をいかに乗り越えるか」の部分だが、この部分は明らかに、後で、つまり編集作業がほぼ終わった時点で、このまま出したら商品価値がなくなるというわけで、やってもいない対談とかを、あわててでっち上げた挙句、新刊本の末尾にこっそり付け加えたものであろうことは明らかだが、この対談の部分だけ、小林よしのりと宮城能彦の二人だけの「対談形式」になっているから、笑わせる。さて、その小林よしのりの対談相手の宮城能彦だが、沖縄村落社会論専攻の沖縄大学教授(社会学)らしいが、著書、論文のタイトルが『共同店ものがたり』と『共同売店から見えてくる沖縄村落の現在』(論文)というものらしく、僕は一瞬、わが目を疑ったが、要するに、この程度の社会学者を相手に、「沖縄問題」や「沖縄集団自決裁判」を語る小林よしのりの知的レベルは言うまでもなく、思想性のレベルが、どういうものかは、今さら、詳しく論じるまでもないだろう。小林よしのりと同様に、宮城能彦もまた、これまで、大江健三郎の『沖縄ノート』をまともに読んだことがなかったらしく、恥かしげもなく、こんなことを言っている。

宮城……私も学生時代に、「これは沖縄戦を考える上での必読書だ」と思って買ったんですよ。ところが5ページも読むと、もうイヤになる。それでも頑張って半分ぐらい読んだんですが、途中でイヤになって、ずっと放っておいたんですね。それからやっと読み終えて、今回この機会にまた読もうと思ったんだけど、ちょっと耐えきれないですよ。普通の感覚ではとても読めない。たぶん、これは必読書だから多くの人が買っているのは間違いないんですね。ずいぶん版を重ねていますし。でも、たぶんほとんどの人は読んでいないと思う。今回の論争に関わっている人たちも、小林さんみたいに最初から最後まで読むことはしていないんじゃないかと思います。これを普通に最初から最後まで読み通すこと自体が奇跡的ですよ。

「語るに落ちる」とは、こういうことを言うのであろう。宮城某が、大江健三郎の『沖縄ノート』を読んでいないこと、あるいは、形式的には読んではいるが、ほとんど実質的にはその内容を読解し、理解してはいないこと、そのことは、この言葉からもほぼ明らかであろうが、さらにこの対談は、驚くべきことに、次のように続いている。

小林 …… 苦しかった。
宮城…… よく読みました。こんなに忙しいのに。
(中略)
宮城…… これと『ヒロシマノート』と合わせて読むと、確実に何がなんだかわからなくなる。一日で両方とも読むと、人格が変わりますよ(笑)。自意識もここまで高められるとノーベル賞がもらえるのかなどと、不謹慎なことを考えてしまいます。私にはきっと文学的才能が全くないのだと思います。

「よく読みました。こんなに忙しいのに……」には、思わず吹き出してしまったが、「沖縄問題」や「沖縄集団自決裁判」について言及し、偉そうに論評することを商売にしている人が、『沖縄ノート』を読む閑も時間もないのか。というわけで、どんなに忙しくても、まず『沖縄ノート』ぐらい読むのが筋であって、「こんなに忙しいのに……」はないだろう。ということは、よく考えるまでもなく、小林よしのりは、これまで、大江健三郎の『沖縄ノート』を一度も読んだこともないままに、他人の大江健三郎批判の言説を受け売りして、「沖縄集団自決」や「沖縄集団自決裁判」について大法螺を吹いていたことになる。それならば、小林よしのりが、小生との論争から逃げたくなるのも当然だろうと思う。いずれにしろ、小林よしのりや宮城某に欠けているのは、文学的才能というよう大それたものではなく、一人の人間としての知的能力であり、文章を読み解くという基本的な読解能力であって、さらにはノーベル賞をどう評価するかは別問題としても、ノーベル賞受賞作家への畏怖の感覚とでも言うべきものであって、さらに言うならば、こういう知的鈍感そのものの人が、いやしくも社会学という学問の専門家を名乗ること自体が、社会学という学問がそもそもそういう知的怠慢を容認する学問かもしれないが、いずれにしろ、これはギャグ漫画そのものではないだろうかと思わざるを得ない。なにはともあれ、この対談で、「沖縄集団自決裁判」の原告、梅澤裕や赤松嘉次の弟が、大江健三郎と『沖縄ノート』を名指しして告訴しておきながら、『沖縄ノート』を今まで一度も読んだことがないと告白したのと同様に、小林よしのりもまた、この本『誇りある沖縄へ』を刊行直前まで、大江健三郎の『沖縄ノート』を一度も読んでいなかったことが「実証的」に、明らかになったわけであって、ということは、つまり小林よしのりもまた、そして小林よしのりだけではなく多くの「沖縄集団自決裁判」の関係者もまた、僕が以前から告発しているように、誰も『沖縄ノート』を読んでいなかったと言うことは、明らかだろうということである。正直のところ、『沖縄ノート』だけではなく、曽野綾子の『ある神話の背景』もまた、誰もまともには読んでいないのである。たとえば、小林よしのりは、曽野綾子が書いている赤松部隊による「沖縄住民スパイ斬殺事件」の話にしても、そのあまりの残酷さに怯んでいるらしく、最近の発言は、若干、腰が引けているように見えるのだが、それもまたおそらく僕の指摘によって初めて知ったことであって、小林よしのりが、それ以前には曽野綾子の『ある神話の背景』も、まともに読まずに議論していたことは明らかで、まさしく小林よしのりの知的貧困の実証的証拠となるであろう。蓮実重彦が、復刊「早稲田文学」で言っているように、本を「読まない……」人が、あるいは「読まずに議論する……」人が多すぎるのである。ともあれ、『沖縄ノート』もまともに読めない馬鹿学者は、漫画家を相手に、「沖縄集団自決裁判」なんぞに口を出さずに、黙って、「共同店」のおばさん達を相手に、こつこつとフィールドワークでもやってくれとでも言うしかない。むろん、「日本語」も「文学書」もろくに読めないと告白するような馬鹿学者が、どれだけ現地取材中心主義を擁護し、そして現地に飛び込みフィールドワークを重ねたところで、その成果はたかが知れいるのだ。曽野綾子にも、そして小林よしのりや宮城某にも、「私は旅と探検家がきらいだ。それなのに、いま私はこうして、私の海外調査のことを語ろうとしている。」(『悲しき熱帯』)という「現地調査」、つまり「フィールドワーク」にまつわるレヴィ・ストロース的自意識と感受性が欠如しているのだ。



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