文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

小林よしのりの新著『誇りある沖縄へ』と「哲学の貧困」について。

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昨日は午前中、北千住の読売文化センターで、午前10時30分から正午まで、大江健三郎と沖縄問題について話し、そのまま江古田の日大芸術学部の授業と続いていたので、普段、のんびり暮らしている身としては、かなりのハードスケジュールで、ちょっと疲れたが、途中、北千住の駅の構内の書店で、二、三日前に売り出されたとか言う小林よしのりの新著『誇りある沖縄へ』を探したが、なかなか見付からず、仕方なく女性の受付の店員に聞いてみたのだが、それでもなかなか見付からず、ついに奥から出てきた男性店員の案内でやっと探し当てることが出来たわけだが、それもそのはずで、この『誇りある沖縄へ』という新著は、小林よしのりの本としては、自費出版本の類かと見間違うほどに実に貧弱で、いつもの派手で下品な装丁の「小林よしのり本」を念頭においていると、とても探し出すことは出来ないだろうと思われるような、薄っぺらな、そしてお粗末な本だった。というわけで、どうにかこうにか手に入れることが出来たわけだが、一読して、その薄っぺらな本の作り方が象徴するように、中身も実に杜撰で、買うのも恥ずかしくなるような、また読むに耐えないような、いい加減なもので、現在の小林よしのりが追い詰められている窮状がどんなものであるかを連想させ、同時に小林よしのりが元来身に着けていた思考における「哲学の貧困」(つまり知的貧困……)を体現しているとでも言うほかはない、そういうシロモノだつた。さて、そのお粗末な本の中身だが、明らかに「やっつけ仕事」と言ってもいいような、沖縄在住のドシロート数人との対談集であって、論評するのも気が引けるが、しかしこの本の後半に、急いで付け加えたのだろうが、小生の「『沖縄集団自決裁判』論文」に対する批判的会話が掲載されているので、無視するわけにもいかないので、ちょっと丁寧に読んでみたのだが、それにしても不思議なのは、「これ以上、山崎行太郎とは関わりたくない……」「山崎行太郎との議論に公的実りははない……」とか、「これ以上、山崎行太郎に書かせると『月刊日本』の購読を打ち切る……」とか、要するに小生との論争からは実質上の撤退宣言を繰り返していたにもかかわらず、不思議なことに自分だけは、小生への批判・罵倒を未だに繰り返すという、言論人としてはちょっと考えられないような、複雑怪奇、そして奇妙な言動を続けているわけで、正直のところ失笑するほかはない。そんなことをするぐらいなら、正々堂々と論争すればいいじゃないのかと思うのだが、いずれにしろ、小林よしのりの論争術なるものの実態がよくわかるわけで、ここに、小林よしのりの「知性の貧困」と「性悪な根性」が、よく出ていると言わなければならない。ともあれ、小林よしのりが小生との「論争」なるものから逃げた理由が、この本を読むとよくわかる。つまり小林よしのりは、口先では、「イタイ人だから、論争しても公的意義はない」などと、大げさに小生との論争拒絶の理由を格好よく語っているわけだが、ところがこの本をよく読んでいくと、現実には多くの点で、小生の「『沖縄集団自決裁判』論文」の内容に説得させられており、小生の主張する「沖縄集団自決裁判」批判の論理を、そのまま受け売りしているような具合で、もはや、小生を相手にして堂々たる論陣を張り、完膚なきまでに論破するというような、そういうマンガの材料になるような派手な「沖縄集団自決」論争なぞマトモに出来る精神状態ではないということが、はっきりとわかる。要するに、この本は、小林よしのりの腰砕け、つまりかっこ悪いぐずぐずの転向宣言をしたような、そういう書物であると思って間違いない。例の「罪の巨塊」と「罪の巨魁」の混同、つまり曽野綾子の「誤字誤読事件」の分析については、僕の分析を紹介した後で、「でもわしは、そういう細かい言葉の問題をあげつらうのはいかがなものかと思うわけ。……」とか、「山崎のこういう『オタク的言い掛かり』もどうかと思うよね。」と言い、「『ブンガク的に』因縁をつけているわけだ。」と、わけのわからない批判をしているが、言うまでもなくこの「誤字誤読事件」は、「沖縄集団自決裁判」にとって決定的な意味を持つ重大な事実であって、それを正当に理解できないのは、恥ずかしげもなく自分の文章読解能力の欠如と言う知的怠慢を棚に上げて、それは「オタク的言い掛かり」だとか「ブンガク的因縁」だとしてしか受け止められない小林よしのりだけである。



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