文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「大江健三郎・ノーベル賞作家の知られざる真実」と題して、北千住読売文化センターで話します。一回だけの参加も可能です。今週金曜日(20)午前10時30分よりー。


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僕は、高校生の頃、大江健三郎を読んだことから、文学や哲学に興味を持ち始め、それまでまったく本を読むことがなかった少年が、突然、本の虫になり、わかるか、わからないかはともかくとして、手当たり次第に難解な小説や哲学書を読みまくり、大学はそのまま文学部へ進学し、やがてそれが生涯の職業となった。その大江健三郎を僕に教えてくれたのは、生物担当の小野重朗先生だったが、小野先生は、高校で生物を教える傍ら、日本中から偉い学者達が先生の下に押しかけてくるという、もう一つの顔を持っている不思議な教師だった。土、日になると、先生は肩に小さなカバンを下げて、田舎の方へ出かけるという習慣だったが、ある日、鹿児島の「曽我どんの傘焼き」という行事が甲突川の高麗橋の近くで行われている時、僕の下宿先のすぐ近くだったので、たまたま散歩がてらに見ていたのだが、突然、人の渦の中に小野先生が現れ、さかんにカメラのシャッターを切っているのを僕は見て感動した。傍らには、若い白人の青年が付き従っていた。さて、小野先生のもう一つの顔とは、実は民俗学者としての顔であり、当時はよく知らなかったが、今になってわかることだが、南九州から沖縄にかけての地域の「農耕儀礼の研究」を主なテーマにしていた。だから、いつも先生が生物の時間に、ちょっとした雑談をする時があったが、その話が実に面白かった。その雑談の中に、「竹の花が咲く……」と鼠が異常繁殖し、異常繁殖した鼠は作物を食い荒らした挙句、やがてその鼠の大群は、海中に向かって次から次へと飛び込み、結果的に集団自殺を試み、すべての鼠が死に絶える、という話があったが、その話の最後に、小野先生は、この話は、開高健という作家の最近の芥川賞受賞作品「パニック」にも書いてあると付け加え、開高健大江健三郎と並んで現役で活躍する有名な新人作家であるから、是非、読んでみなさい、と言った。僕は、それまで、芥川賞なるものも、開高健という作家も、大江健三郎という作家も、まったく知らなかったのである。僕は、初めてのことだったが、さっそく学校の図書室へ出かけ、開高健大江健三郎とが入っている角川書店の「日本文学全集」の一冊を借り出し、下宿にかえるや否や、読んでみた。開高健の「パニック」はそれほどでもなかったが、「死者の奢り」「芽むしり仔撃ち」「他人の足」「人間の羊」等の大江健三の初期短編小説には魂を揺さぶられた。僕は、それまで、自分が何で悩み、何で苦しんでいるのまったくかわからなかったが、大江健三郎の小説を読みすすめていくうちに、それが何であるかが、おぼろながら、だが確実にわかって来たと思った。僕は、早速、天文館にある小さな本屋に出かけ、大江健三郎の文庫本を探し出し、一冊だけ買った。解説は江藤淳だった。僕が、本格的に本を買うことを始めたのは、この時からである。それから僕は、大江健三郎の本を、手に入る限り買い集め、読みふけり、やがてその大江健三郎の本やエッセイをステップにして、世界中の多くの作家や思想家を、たとえばサルトルカミュニーチェドストエフスキー、そしてガスカールやノーマン・メイラーまで、あるいは小林秀雄から江藤淳まで、大江健三郎的世界に出てくるあらゆる作家や思想家を僕は知った。僕は、そのことを、つまり大江健三郎の本を読み耽っている事を、あるいはサルトルドストエフスキーを読んでいることを、誰にも話さなかった。黙って一人で読み、黙って一人でぼんやりと考えていた。至福の時間だった。担任から呼び出されて、厳しい顔で「このままでは落第の可能性があるぞ……」と警告されても、僕は平然としていた。落第が何だ(!!!)、僕は、今、世界中の作家や思想家と闘っているのだ(!!!)、と思っていたから、落第も何も問題ではなかった。担任の顔が小さく卑俗に見えた。僕は、大江健三郎のように「作家」になるか、小野先生のように「学者」になるかしかないと考えるようになっていた。そしてそれから、どうにか卒業できるという見通しが付くと、卒業式にも出ないままに、僕は、早稲田大学理工学部の学生だった兄の下へ西鹿児島駅発の夜行列車で出発したのだった。


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