文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

秋葉原無差別殺人と小泉改革、トヨタ、派遣会社の関係性は、ないのか、あるのか?

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秋葉原無差別殺人事件の一報をを聞いて、おそらくその報道内容から、小泉改革トヨタ、派遣会社……との関係性を次々と連想しなかったのものは皆無だろうと僕は思ったが、同時に、あれは個人犯罪である、一個人の凶悪犯罪を社会や時代のせいにするのは間違いだ、無差別殺人は病的な人格の、ある特定の人間の犯罪であって、あくまでもその犯人や家族の自己責任だろう……というような声が、どこからともなく沸き起こってくるだろう事も、なんとなく予想できることであった。そしてそれは予想通りの展開になりつつある。僕は、秋葉原無差別殺人事件について語れるほど、事件の詳細を知らないが、しかしやはり、この事件は、犯罪の責任の在り処は別にして、この時代を象徴する事件の一つであることは間違いないだろうと思う。個人の特殊な犯罪であることは間違いないが、個人の犯罪と言って済ませられるほど、単純な犯罪でもあるまい。小泉改革を支持し声援を送っていたが、その結果、就職にあぶれ、定職もなくなり、派遣とフリーターとニートに押し込められているのが実情の多くの若者達は、はたして、どう、この凶悪事件を受け止めているのだろうか。僕は、凶悪犯罪の責任はともかくとして、あの孤独な犯人の青年の背後には、無数の若者達が、あるいは中高年を含めて定年を待たずにリストラされたり、会社が倒産して失業者に転落した者達が無数に控えており、あの青年の怒りと絶望を心の奥深くで、つまり無意識の領域で共有していると思う。凶悪犯罪は、決して一過性で突発的なものではない。僕は、無差別殺人という凶悪犯罪の責任を単純に政治ゃ社会や時代のせいにするのも反対だが、同時に個人の責任に、あるいは家庭の子供の育て方の問題に責任に封じ込めることにも反対である。犯罪は時代を映す鏡である、という側面を否定することは、おそらく誰にも出来ない。孤独な青年たちの「ささやかな」(?)犯罪を、たとえばす金貸しの老婆殺し、あるいは地方都市でのあるグループの仲間リンチ殺人、そしてまた子供たちによる父親殺し等……を、小説の素材として取り上げ、それを小説のテーマとして、あるいはその時代のテーマとして執拗に描いたのはドストエフスキーだが、ドストエフスキーの文学が普遍的なのは、一見すると孤立している青年個人の犯罪が、実はその時代の本質を体現し、その時代の病巣を抉り出しており、しかもその青年の存在そのものが、個人的であると同時に普遍的であったからであろうと推測する。つまりドストエフスキーは、青年達の犯罪を、政府や警察、あるいは良識的な御用文化人たちが好んで取り上げるような、治安の問題としてでも、家庭教育の問題としてでも、学校教育の問題としてでもなく、実は時代や社会の問題とも微妙に重なるような青年の「実存」の問題として取り上げているのである。ところで、今回の事件においても、警察からの捜査情報が、つまり警察発表という名目の、警察しか知りえない犯人の知られざる情報が、それ故に本当か嘘か判定しがたいガセネタまでもが、ジャーナリズムを中心に垂れ流され続けているようだが、おそらくこの警察の「情報操作」において、犯罪分析は本来の問題分析の方向から大きくずれていくことになるだろう。それ故に、ドストエフスキーのような文学者の「まなざし」が必要なのだ、と僕は思う。(続く)



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