文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

大磯と文学者たち……。

●大磯プリンスホテルで……。

先日、文藝講演会の講師を依頼されたので大磯のプリンスホテルに行って来た。大磯プリンスホテルというと、窓側に、大磯ロングビーチが広がり、その向こうに相模灘が……というわけで、途方もなく明るく健康的な場所なのだろうが、最近は西武の堤一族の退場で、なんとなく淋しさが漂っているように感じられる。僕の個人的な思い出としては、大磯というと、某宗教団体の教祖になっている学生時代の友人がいて、彼の住まいが大磯ということだったので大磯という名前はよく聞いたのだが、その頃はあまり大磯という土地について深く考えることもなく、鎌倉や、大磯のお隣の二宮などと言う土地と違って大した関心も興味もなく、また最近は伊豆や熱海へ行く途中で、あるいは東海道線で、大磯駅は電車でよく通るのだが、まったく気にもとめなかった。一方、二宮という土地は、言うまでもなく「三田文学」編集長として辣腕ぶりを発揮し、彼自身も作家として一時代を築いた山川方夫という作家の住んでいた土地であり、また山川が二宮駅前の国道交差点で、交通事故に遭い、若くして急逝した土地として、僕には記憶に鮮明であるが、それに比較して大磯と言えば、思い浮かべるのは、世間並みに大磯ロングビーチに大磯プリンスホテル、そして、僕の年代かその上の年代の人には、戦後のワンマン宰相として知られる吉田茂ということになるだろうが、しかし、これだけではなく、この大磯という土地は、吉田茂以外にも、明治時代の有力政治家たち、たとえば伊藤博文等の住宅地、ないしは別荘地として知られ、何か不思議な象徴的な意味を持つ土地のようで、これを文学という観点から考えても、大磯に関係する文学者としては、古くは獅子文六福田恒存吉田健一、若いところでは村上春樹、あるいは福田恒存の次男で英文学者の福田逸氏等がおり、なかなか面白い記号的意味作用を有する土地のようだということが、今回、講演会用のレジュメを作って行く内に、なんとなくわかってきた。つまり鎌倉や二宮とは、ちょつと違う風土的な神話作用を有する土地ということだ。実は、僕はまったく知らなかったが、講演会を依頼されてから分かったことだが、大磯は、明治時代から我が国の近代文学の最前線にあって、常に近代詩や近代文学を先導し、漱石や鴎外と並んで文豪として知られる島崎藤村の終焉の土地であり、また島崎藤村夫妻の墓所もある土地だったようなのだ。さらに、僕の関心に引き寄せて考えるならば、大磯は、三島由紀夫が『潮騒』を書くに当たり、長い間逗留したという旅館「大内館」のある土地しても知られているらしい。というわけで、僕の文藝講演会は、「大磯と文学者たち」という題名にするこにし、話の中心は、大久保利通、その息子の牧野伸顕、その娘婿の吉田茂、その長男で作家、批評家の吉田健一、そしてそれに余談だが、付け加えるならば吉田茂の孫で現首相候補麻生太郎と続く五世代に渡る体制側の縦の系譜と、島崎藤村が、昭和16年東條英機陸軍大臣に依頼されて文案作成から参加した『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱めを受けず……」と「沖縄集団自決」との関係など……横の系列、要するに、近代日本の「光の部分」と「影の部分」の対比の元に、大磯という土地の象徴的意味を探るという形でやることになった。講演の時間は、わずか一時間にも満たない短時間であり、それに話を聞く人達もそれほど文学に深い関心を持つ人たちとは思えなかったので、話は軽い雑談風のものになったのだが、意外に反応はよく、僕個人としてもかなり熱の篭った話になった。ところで、大磯に馴染みの深い文学者たちには大きな特徴があって、それはどちらかと言えば、「体制側の文学」であり、そして今風に言えば「勝ち組の文学」ということであり、その中でも実は島崎藤村は、近代文学自然主義、あるいは私小説を代表することが象徴するように例外的な存在であり、かなり異色の存在だと言っていい。つまり、大磯に馴染みのある体制側の文学、勝ち組の文学は、近代文学的基準で言えば、マイナスの価値しか持たず、つい最近まで、文壇内外では否定的評価しかうけてこなかったのであるが、それを象徴しているのが、近代文学の終焉が語られ始めると同時に、最近、それと対照的に急速に人気が出てきた吉田健一の文学であり、福田恒存の文学なのであると言えば、大磯という土地の神話学もなんとなく理解できよう。やはり、同じ湘南地方の土地と言っても鎌倉や二宮とは違う土地なのである。体制側の文学者と思われている三島由紀夫という作家が密かに憧れ、そして『潮騒』というギリシャ的な明るい小説の執筆の場所として大磯を選び、大磯の旅館に滞在しつつ『潮騒』を書いたということは、この土地の持つ神話作用というものを三島由紀夫が感じ取っていたということだろう。しかしながら、友人であり、大磯の住人とも言うべき吉田健一と、最終的に仲違いし、決別したことが象徴するように、三島由紀夫はあくまでもこの大磯にとっては、外様だったと言うべきだろうか。そういえば、三島由紀夫は、福田恒存とも喧嘩別れし、決別しいる。僕が若い頃から愛読し、尊敬し、敬愛してきた、どちらかと言えば、「体制側の文学」、「勝ち組の文学」と思われている小林秀雄江藤淳三島由紀夫という文学者たちも、厳密に言えば、「体制側」、「勝ち組」の人間とは言えず、確かに表面的には体制志向、勝ち組志向でありながら、実は負け組みの心情を本質的にその体質と文学作品に内包している文学者たちだということが、なんとなく分かってきた。僕は、文学者としての吉田健一にも、福田恒存にも、完全には感情移入できないので、それを不思議だと思っていたが、今、大磯という土地に来て、その根拠が、小林秀雄江藤淳等、多くの文学者や思想家が、何故、鎌倉という湘南とはいえ、歴史的にも地形的にも暗く陰湿な空気の漂う土地を目指すのか、ということ共に、分かったような気がする。僕は、小さな山をまるごと邸宅としている旧吉田茂邸を見て、田舎の家や山を思い出したのだが……。

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●大磯「大内館」……。

●旧吉田茂邸門……。

大磯駅前……。

島崎藤村夫妻の墓のある「地福寺」……。