文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「世界日報」記者よ、もっと真面目に歴史を勉強しなさい。


「諸君!」四月号に、座間味島の「集団自決」問題の小特集があり、そこに新しい「軍命令説」を覆すような「爆弾証言」者が現れたということで、「目撃証言『住民よ、自決するな』と隊長は厳命した」というレポートが掲載されているが、これまた、「諸君!」先々月号の秦郁彦のレポート以上に資料分析、文献批判など、初歩的な勉強不足と思考力欠如が露呈した稚拙な作文である。このレポートを書いているのは「世界日報」の記者らしいから、筆者の思考力や文章力、あるいは分析力についてあれこれ詮索するようなことはしないが、今、ここでは、一つだけ間違いを、と言っても根本的な間違いだが、指摘しておこうと思う。そもそもこの証言は、「日本エァービジョン」(本社・東京都中央区)主催の「座間味島渡嘉敷島ツアー」なるものの参加者達の前で、沖縄座間味島で民宿を営む宮平秀幸(78)が、この男は事件の当時は、「陸軍海上挺進第一戦隊(梅澤裕隊長)」本部付きで伝令を担当していた15歳の少年兵だったらしいが、語ったものらしい。僕に言わせれば、たまたまやってきた戦跡見学の「ツアー客」の前で、集団自決事件の目撃者か体験者か知らないが、今まで黙っていたものを、今頃になって歴史的な「爆弾証言」ででもあるかのように、大袈裟に告白証言する男もちょっとヘンなものだが、僕は何回もそういう男の告白証言は眉に唾をつけて聞くべきだと言っているわけだが、そういう男の告白証言を、大真面目に取り上げて、そのまま鵜呑みにし、鬼の首でも取ったかのように大騒ぎする保守論壇の面々もちょつと幼稚すぎるのではないかと思うのである。ちなみに宮平秀幸という、突然、証言を始めた新証言者は、「母の遺したもの」でお馴染みの、守備隊長・梅澤裕ともかなり個人的にも親しい関係にあった座間味島の女子青年団リーダー・宮城初枝の実弟にして、「母の遺したもの」の著者で、現在「沖縄集団自決」の研究者としても高い評価を受け、それなりに認められている沖縄戦史研究家・宮城晴美の叔父にあたる人らしいが、この男が、何故、今、証言する気になったのか、僕には不可解である。まさかそんなことはあるまいが、「沖縄集団自決裁判」の中心人物の一人として脚光を浴びている姉や姪(宮城晴美)への対抗心から、証言する気になったのだろうか。それとも純粋に「歴史の真実」究明への意思からだろうか。情報によれば、この男の証言を中心に、沖縄で、「軍命令はなかった……」派の「本土」文化人を交えての演説会も企画されているらしい。本土保守派の巻き返しというわけだろうか。いずれにしろ、僕には、どうでもいいことだが、この男が証言を開始した動機は、歴史研究者や記述者ならば、この男の戦時中の梅澤部隊における役割や立ち位置の問題と共に、充分に考慮に入れた上で綿密に検証すべき問題であることは間違いないはずである。言うまでもなく、この男は、現地徴兵・召集された「防衛隊員」であり、どちらかと言えば梅澤部隊の内側にいた人間である。しかも、姉・宮城初枝が、梅澤ときわめて親密な関係(男女関係ではない……)にあったことを考えるならば、この男も、梅澤サイドの人物と見做してほぼ間違いないだろう。少年とはいえ防衛隊員である以上、一応「軍人」(?)であり、梅澤部隊の隊員たちともそれほど年が離れているわけでもなく、たとえば、赤松部隊が曽野綾子を囲んで豊橋で密談した際には「元防衛隊員」も参加していたということだから、この男を、梅澤部隊の関係者の一人と見做すことは、それほど見当違いにはならないだろう。現に、この男は、集団自決騒動後、軍の壕に避難し、軍の兵士達から治療や食糧などの手厚い保護と支援を受けている。さて、今までの話は、証言の信憑性や客観性に関する問題だが、次に、この男の証言内容について……。この新しい証言者・宮平秀幸(78)は、梅澤隊長が「住民よ、自決するな」と発言したと証言しているが、この証言の中の「自決するな」という表現がこのまま正しいとすれば、ここに重大な「虚偽証言」の疑いという問題が発生する。確かに、梅澤は、宮平秀幸が証言したように、「自決するな」という趣旨の発言をしたかもしれないが、あるいは逆に実際はしなかったかもしれないが、いずれにしろ、少なくとも梅澤は、この時、「自決」という言葉は使わなかったはずなのである。なぜなら、この段階ではまだ、「自決」という言葉も「住民自決」という言葉も、むろん「集団自決」という言葉も、この座間味島渡嘉敷島では、米軍上陸を目前にした現地住民が、死ぬか生きるかの実存的選択を迫られた、という次元の段階では使われていなかった言葉なのだ。つまり、「死ぬな」とか、「殺すな」とかの発言はあったかもしれないが、「自決するな」と梅澤が言うはずがないのである。ここで、『鉄の暴風』の筆者・太田良博の証言を引用しよう。太田良博によると、ここでは渡嘉敷島に限定されているが、「自決」とか「集団自決」という言葉は、あまり適切な表現ではなかったと太田良博は反省した上でだが、それらは自分が勝手に考案して、この「住民集団自殺事件」に対して使った言葉だと言っている。それまでは、事件の関係者達は誰も「自決」などという言葉を使ってはいなかった、と。

ここで、「集団自決」という言葉について説明しておきたい。『鉄の暴風』の取材当時、渡嘉敷島の人たちはこの言葉を知らなかった。彼らがその言葉を口にするのを聞いたことがなかった。それもそのはず「集団自決」という言葉は私が考えてつけたものである。島の人たちは、当時、「玉砕」「玉砕命令」「玉砕場」などと言っていた。「集団自決」という言葉が定着化した今となって、まずいことをしたと私は思っている。この言葉が、あの事件の解釈をあやまらしているのかも知れないと思うようになったからである。
「集団自決」の「自決」という言葉は、〈自分で勝手に死んだんだ〉という印象をあたえる。そこで、〈住民が自決するのを赤松大尉が命令する筋合いでもない〉という理屈も出てくる。「集団自決」は、一種の「心中」または「無理心中」である。しかし「心中」は、習俗として、沖縄の社会では、なじまないものである。まれではあるが、自殺はある。サイパンで、沖縄の女たちが断崖から飛びこむ記録フィルムを見たことがあるが、あれは「心中」ではない。 (「沖縄タイムス」「土俵をまちがえた人」)

太田良博の説を信じるとすれば、おそらく、梅澤は、「自決」という言葉ではなく、「玉砕」とか「自殺」とか言ったに違いない。そこで、宮平秀幸証言の文章をもう一度丁寧に読んでみよう。「『住民よ、自決するな』と隊長は厳命した」という言葉が象徴するように、宮平秀幸は、新証言の中で、さかんに「自決」という言葉を使っているわけだが、当時の梅澤部隊では、「自決」とか「集団自決」という言葉が、常識的に使用されていたのだろうか。おそらくそんなことはあるまい。とすれば……。宮平秀幸証言の、「自決」という言葉が出てくるところは怪しいと考えなければならないだろう。とすれば他の証言も…、「???」…ということになろう。

すると、梅澤隊長は「何を言うか! 我々にさえ戦う武器弾薬がないのに、あなた方は自決させるような武器など全くない」と言いました。地元メディアなどに「隊長の自決命令があった」などの報道がありますが、全くデタラメです。
自決命令どころか、梅澤隊長が出した『命令』は、「俺の言うことが聞けないのか! よく聞けよ。我々は国土を守り、国民の生命財産を守るための軍隊であって、住民を自決させるためにここへ来たのではない! 自決するな! 武器弾薬や毒薬など渡すことはできない」というものです。(「諸君!」四月号より)

何故、宮平秀幸の耳に「自決するな」という梅澤の発する「言葉」が聞こえてきたのか。それは、見も蓋もない話だが、宮平秀幸が証言している梅澤の発言は、実は、宮平秀幸が事件前後に、つまり事件現場周辺で、リアルタイムで聞いた言葉ではなく、おそらく戦後になって梅澤が新聞や雑誌、あるいは法廷証言などで話した言葉なのである。つまり、梅澤は、「死ぬな」「殺すな」とは言ったかもしれないが、あるいはそれすら言わずに、つまり宮城初枝が証言するように「ちょつと待ってください」と言っただけかもしれないが、少なくとも「住民よ、自決するな」なんて言葉で厳命するはずがないのである。それを、宮平秀幸が証言したとすれば、それはまさしく宮平秀幸が、梅澤の戦後の発言に影響を受け、それがあたかも戦場でリアルタイムに聞いたかのように錯覚するようになったいうことであろう。、では、この場面で、実際はどういう言葉が使われたのだろうか。新証言者の実の姉にあたる宮城初枝の証言によると、その時は、「玉砕」という言葉が使われた可能性が高い。これは、戦後、沖縄を訪れた梅澤と宮城初枝が、娘の晴美とともに再会し、「軍命令説は遺族年金目的のウソ証言でした……」と告白し、謝罪する場面である。

母が梅澤氏に、「どうしても話したいことがあります」と言うと、驚いたように「どういうことですか」と、返してきた。母は、三五年前の三月二五日の夜のできごとを順を追って詳しく話し、「夜、艦砲射撃のなかを役場職員ら五人で隊長の元へ伺いましたが、私はそのなかの一人です」と言うと、そのこと自体忘れていたようで、すぐには理解できない様子だった。母はもう一度、「住民を玉砕させるようお願いに行きましたが、梅澤隊長にそのまま帰されました。命令したのは梅澤さんではありません」と言うと、驚いたように目を大きく見開き、体をのりだしながら大声で「ほんとですか」と椅子を母の方に引き寄せてきた。母が「そうです」とはっきり答えると、彼は自分の両手で母の両手を強く握りしめ、周りの客の目もはばからず「ありがとう」「ありがとう」と涙声で言いつづけ、やがて嗚咽した。母は、はじめて「男泣き」という言葉の意味を知った。
梅澤氏は安堵したのかそれから饒舌になり、週刊誌で「集団自決」命令の当事者にされたあと職場におれなくなって仕事を転々としたことや、息子が父親に反抗し、家庭が崩壊したことなど、これまでいかにつらい思いをしたか、涙を流しながら切々と母に語った。
また母も、戦争で働き手やすべての財産を失った住民が貧しい生活を乗り越えるには、「援護法」を適用してもらうほかなかったことや、助役の家族を苦しめたくなかったことなど、当時の島の状況を詳しく話した。すると氏は、「島の人を助けるためでしたら、私が悪者になるのはかまいません。私の家族に真実が伝われば十分です」と言い、翌日、一緒に座間味島に渡って部下や住民の弔いをすることを約束して別れた。 二人は四時間余りも話し込んだ。(以上、「母の遺したもの」262〜263頁)

ここで、宮城初枝は、「自決」と言う言葉を使わずに、「玉砕」という言葉を使っている。「住民を玉砕させるようお願いに行きましたが」……と。つまり、この時点では、「自決」とか「集団自決」という言葉は使われてはいなかった可能性が高いのである。とすれば、宮平秀幸が、「自決するな」という梅澤隊長の声を聞くはずがないのである。とすれば、以下に続く、まことに「ご立派な」演説も、おそらく宮平秀幸の創作であろう。この場面のやりとりは、梅澤自身の「手記」ではどうなっているだろうか。

 二十五日夜二十二時頃戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が来訪して来た。助役宮里盛秀氏、収入役宮平正次郎氏、校長玉城政助氏、吏員宮平恵達氏及び女子青年団長宮平初枝さん(現在宮城姓)の五名。
 その用件は次の通りであった。
いよいよ最後の時が来た。お別れの挨拶を申し上げます。
老幼婦女子は予ての決心の通り軍の足手纒いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。
就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。 
 私は情然とした。今時この島の人々は戦国落城にも似た心底であったか。
 私は答えた。
決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共にがんばりましょう。弾薬は渡せない。  
しかし、彼等は三十分程も動かず懇願し私はホトホト困った。折しも艦砲射撃が再開し忠魂碑近<に落下したので彼等は急いで帰って行った。
 これで良かったとホッとしたが翌二十六日から三日位にわたり、先ず助役さんが率先自決し村民は壕に集められ次々と悲惨な最期を遂げた由である。

ここには、おそらくかなりの自己弁護のための脚色があることは間違いないと思われるが、それが、どこかを明確にすることは出来ない。しかし、宮平秀幸の証言とかなり重複し、且つ微妙にずれていることと、宮城初枝の証言とは決定的に違っていることは明らかである。宮城初枝の証言によると、梅澤の口から、少なくとも「自決せよ」という、いわゆる「自決命令」に相当する発言は聞いていないというだけで、その後の「軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共にがんばりましょう。弾薬は渡せない。 」というような梅澤発言を聞いたとは証言していない。というより、そういう「ご立派な」(笑)……発言は聞いていないと証言している。いずれにしろ、宮平秀幸証言を鵜呑みにすることは、他の文献や資料を参照した上でなければ、そのまま鵜呑みにはできない。宮平秀幸証言は、元来の記憶と学習した記憶の混乱と混同による偽証の可能性が窮めて高いと言わなければならないだろう。要するに、新しく現れる証言者達が、文献や資料をよく読み、勉強しており、ついには直接聞いた言葉と、文献や資料で読み、記憶している言葉とを混同するようになる……というような例が告白や証言に少なくないのは、それは記憶に基づく証言や告白というものの宿命的本質なのであり、こういう喜劇は起こるべくして起きることであって、ある意味では当然のことなのである。むしろ、そういう記憶に基づく証言や告白の危険性を前提にして歴史研究や歴史記述を行うべきはずなのであって、功を焦る余りに、こういう怪しい新証言に飛びつき、それを真に受け、鵜呑みにして大騒ぎする保守論壇の面々こそ喜劇的と言うべきで、勉強不足、思考力欠如と言われても仕方がないだろう、と僕は思う。(続)