文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

赤松某と曽野綾子のツーショット写真(?)・・・。


●資料引用元
『青い海』1971年6月号の赤松嘉次手記「私たちを信じてほしい」
15年戦争資料 @wiki
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/840.html



この写真は、1971年6月、「青い海」という雑誌に、「赤松手記」とともに掲載されたものである。左奥の女性が曽野綾子、その手前の、テーブルに乗り出して右手で何かを指している白ワイシャツの男が赤松某、と思われる。曽野綾子が、赤松某や赤松隊隊員等と接触したのは、大阪千日前「ホテルちくば」以来、少なくとも二回目である。他に、この前後に、豊田市でも接触しているようだが確認はとれていない。この写真からも、曽野綾子が、事件の一方側の当事者である取材対象に深入りしていることは明らかで、ここで赤松等と情報交換や資料の調整等を行ったことが推測される。おそらく曽野綾子は、沖縄現地取材の成果を、たとえば投降勧告に来た伊江島住民に対するスパイ視斬殺事件等の調査情報を、ここで披露し、意見や反論を求めたのではないか。その反論が、投降勧告に来た「伊江島住民は軍使ではなかった」とか、「墓穴を掘らせた覚えはない」というような『ある神話の背景』の記事になったのであろう。この「赤松手記」には、曽野綾子も書いている大学生になった赤松某の「娘」(「お嬢さん」)の話(メロドラマ?)も出ている。

私には大学にいっている娘がある。あのいまわしい事件が報道されたあとで、娘が「お父ちゃんは軍人だった。軍人は住民を守るのが義務ではないか」と私を難詰したことがある。その通りであり、いかにして島を死守し、最後の一兵まで闘うかという状態の中でも、われわれは住民をなるべく戦闘にまき込まないよう心掛けた。今更、弁解がましく当時のことを云々する意志は毛頭ないが、沖縄と本土の若い世代の人々にまで誤解されるのはつらい。このたび「青い海」の編集部から、現在の気持を書いてほしいとのたってのすすめもあり、「私達を信じてぽしい」という気持から筆をとった次第である。

 この赤松の娘の話が、この直後に刊行される曽野綾子の著書『ある神話の背景』で、そのまま使われていることは言うまでもない。さて、曽野綾子は、取材の客観性と中立性を保持するために、出来るだけ、事件の、一方の張本人であり当事者である赤松某との個人的接触を避け(一回だけ自宅を訪問?)、赤松隊隊員とも、集団ではなく個別に取材したという話だが、かなり嘘っぽいことが、この写真から推察できる。この写真を見ていると、まるで名誉回復へ向けての合同作戦会議のように見えるではないか。この写真以外でも、曽野綾子と赤松某らが頻繁に接触し、情報交換し、そして大江堅三郎批判や言論情報工作、そして裁判闘争へ向けて作戦を練っていたことは、おそらく間違いない。要するに、以下に「赤松手記Ⅰ」(月刊誌「潮」掲載の「赤松手記2」も存在する。)を全文引用するが、この赤松手記を読んで僕が感じることは、この赤松某という男には、人間として、あるいは帝国軍人としての何かが欠如しているということだ。多くの心ある帝国軍人は、戦後になって、特に指導者達は責任を感じて自決しているはずである。僕は、今更、赤松等に、自決せよ、と言わない。帝国軍人としてのプライドを持っているならば、曽野綾子等に唆されたのか、誰に唆されたのか知らないが、せめて現場の最高司令官としての自覚を保持しているならば、責任を現地住民に転嫁するような見苦しい言い訳だけはやめろ、と言いたい。現に、赤松某は、スパイ疑惑で逮捕した沖縄の少年に向かって言ったはずではないか、「日本人なら、こういう時、どうするか分かっているだろう」と。それに対して、少年は、毅然と「はい、死にます。」と言って、首を吊って縊死したと言うではないか。ところが、この帝国軍人は、自分のことになると、言い訳の手記は書くは……、お詫びの私信を公開するは……、作家やジャーナリストと度々秘密の会合を開き、反撃の作戦を練るは……、名誉回復の裁判はやるは……。そして、トドメが、「どうか私達を信じてほしい。」なんて軟弱な文章の公開とは……。やはり女々しすぎるのだ。ここまで日本帝国軍人の精神は腐っていたのか……。(山崎、注ー赤松はすでに死亡、故人)ところで、「赤松手記2」には、次のような一節があるが、おそらく、これは、元帝国軍人が書く文章ではないので、曽野綾子等の入れ知恵か曽野綾子あたりの発言の受け売りだろう、と思われる。

なぜ現地調査をしないのか
村当局が戦記を村の公文書としてまとめた段階では、当事者にも、私個人をあれほどの"極悪人"に仕立てる心算はなかっただろう。ところが戦記が、マスコミの目にとまるや、事態はあれよあれよというまに急旋回、つぎつぎと刊行される沖縄関係の書物のいたるところに、赤松という大隊長が、極悪無残な鬼隊長として登場することになったのである。
ことに、左翼系の書物に、その煩向がとくに顕著だった。思想が異なり、時代のすう勢も変わったから、元陸士五十三期生の男が誹謗されるのも、運命かもしれない,いたしかたがないというものである。
だが間題は、その方法である。村の戦記の記述を一から十までウのみにし、さらに尾ヒレ手ピレをつけて、さも現揚にいて、すべてを見知っていたかのように描写する魂胆に憤激を若ぼえる。
兵士の銃を評論家のベンにたとえれぱ、事情は明白だ。ペソも凶器たりうる。「三百数十人」もの人間を殺した極悪人のことを書くとすれば、資料の質を問い、さらに多くの証言に傍証させるのが、ジャーナリストとしての最小限の良心ではないのか。
戦記の作者の何人かは、沖縄在住の人である。沖縄本島と渡嘉敷の航路は二時間足らずのものなのに、なぜ現地へ行って詳しい調査をしなかったのか。その怠慢を責められてもしかたあるまい。彼らの書物を孫引きして、得々として"良心的"な平和論を説いた本土評論家諸氏にも同じ質問をしてみたい。
日本の良識を代表するといわれるA新聞に「丸々とふとった赤松大尉は女を従えて傲然と壕から出てきた」と書かれたこともある。当時の部下が皆知っているように、私は今よりもっとやせ、年齢も二十五だったから壕に女をつれこむほどの"才覚"は、みじんも持ち合わせてなかったのである。
以上を私の強弁、居なおり、傲慢ととる方もあろう。だが、ぬれぎぬをかぶぜられっ放しだった者には、このくらいの強腰がないと、かえって自己弁護も怯儒(きょうだ)のいいわけととられかねないのである。

特に、「戦記の作者の何人かは、沖縄在住の人である。沖縄本島と渡嘉敷の航路は二時間足らずのものなのに、なぜ現地へ行って詳しい調査をしなかったのか。その怠慢を責められてもしかたあるまい。」という文章は、曽野綾子の文章の受け売りである。しかも、この文章は、太田良博による「現地の直接体験者」から取材したという反論によって、完全に論破されているわけだが、かつては平凡な帝国軍人であり、今は平凡な肥料店店主である赤松某が、作家である曽野綾子とまったく同じような取材方法批判やマスコミ批判を展開するなんて奇怪である。言い換えれば、「赤松手記2」は、曽野綾子が代筆した文章なのではないか、と思わせるような文章になっているのだ。いずれにしろ、この頃、曽野綾子が、赤松某等を巻き込んで、何かを企んでいたことは間違いないと僕は推察している。ちなみに、ついさっき、発見したのだが、曽野綾子の「ある神話の背景」の雑誌連載原稿には、大江健三郎批判の文章はなかったらしく、文芸春秋から本として上梓される時、後から書き加えられたものらしいのだが、とすれば、ここからも、大江健三郎の「罪の巨塊」発言が、「沖縄集団自決取材」の動機だという曽野綾子発言の「嘘」は明らかである。



■赤松手記Ⅰ
『青い海』1971.6.22 慰霊の日特集 特別寄稿ー赤松手記全文

『青い海』1971.6.22慰霊の日特集 特別寄稿
"集団自決"の島 渡嘉敷島の兵士と村民

"私たちを信じてほしい"
赤松嘉次(元海上挺進第三戦隊隊長)


戦後このかた、渡嘉敷島での村民の集団自決を命じた本人と伝えられ、昨年の訪沖の際には抗識デモにあって、ついに島に上陸できなかった"赤松夫尉"が、「これ以上誰も傷つけたくないが、せめて若い人たちには真相を知らせたい」と、はじめて心境をしたためた手記の全文。

夢想だにしなかった激しい抗議デモ
月日のたつのは、まことに早い。私たち海上挺進第三戦隊の生存者の有志達が、戦時中の基地であった渡嘉敷島の人々に招かれて、戦没者の二五回目の慰霊祭に参列するため訪沖して一年余りになる。私が沖縄に行くことについては、旧隊員の中でも異論はあったが、私自身別段気にすることもなく出掛けた。
出発前、沖縄のほうから空港でマスコミの取材が予想されるので、ノー・コメントでとおしてほしい旨の連絡があったので、ある程度のことは予想していたのだが、あのような激しい抗議デモは夢想だにしなかったし、また、あれ以来約半月にわたり、沖縄の新聞で論議されたのには、驚きというより全く戸惑ったというのが実感である。
それまでにも、本土では数回週刊誌等にとりあげられていたが、私は興味本位的な記事であり、あのような内容のことが、沖縄の方々に深く信じられているとは、夢にも思っていなかったのである。
本土でも戦後しばらく、この様な暴露的な読物や映画が多く出廻り、世人のひんしゅくを買ったが、ようやく生活が落着くと共に、多くは姿を消していったので、沖縄における私達のことも、時日と共に真相が明らかになるものと信じていた。もち論、その間沖縄の知人との文通も途絶えており、現地沖縄の様子もわからぬまま、慰霊祭参列のための訪沖となり、あの事件に遭遇したのである。
私には大学にいっている娘がある。あのいまわしい事件が報道されたあとで、娘が「お父ちゃんは軍人だった。軍人は住民を守るのが義務ではないか」と私を難詰したことがある。その通りであり、いかにして島を死守し、最後の一兵まで闘うかという状態の中でも、われわれは住民をなるべく戦闘にまき込まないよう心掛けた。今更、弁解がましく当時のことを云々する意志は毛頭ないが、沖縄と本土の若い世代の人々にまで誤解されるのはつらい。このたび「青い海」の編集部から、現在の気持を書いてほしいとのたってのすすめもあり、「私達を信じてぽしい」という気持から筆をとった次第である。
私達海上挺進第三戦隊の戦闘記録は、昭和二一年一月、浦賀に復員した時復員局に提出、昨年八月には隊員の要請もあったので、タイプ印刷にして隊員及び関係方面に配布したので、私達の戦闘行動については、いまさら云々する必要はない。
当時、私達の部隊は、ベニヤ板製のモーターボートに二一〇キログラム爆雷二個を積んで米軍船団を夜襲、体当りを敢行する特殊部隊であり、このような部隊は慶良間に三個、沖縄本島に三個の計六個戦隊が配置されていた。隊員は第三戦隊の場合、当時二五才であった私を長に、一六〜一八才の特別幹部候補生で編成され、総員一〇四名。候補生は、入隊後三カ月の速成教育ののち沖縄に赴き、開戦時には事故、病気等で一〇〇名を割っており、装備としては拳銃(弾丸六)、軍刀と前記のモーターボートであった。他に二〇年二月中旬、整備隊及び基地勤務隊の計二〇〇名ばかりが、機関銃二、軽機関銃六、小銃一九七丁をもって私のもとに配属された。この隊は全員召集兵で編成されており、隊長の西村大尉の五二才を頭に、戦隊の者とでは親子ほど年令の差違があった。このことは爾後の戦闘において、いろんな不便と不合理を生じることになる。
私は軍司令部の意向により、すみやかに海上特攻の準備を完成すべく、村民にも協力を求めてこれに全力を注入し、陸上戦闘の準備としては、基地隊が私の配属される以前に海岸につくった若干のタコツボ程度で、なんの準備もなく米軍の上陸を迎えた。
村民は指揮下になくなんらの指令もなし
加うるに当時における軍民の関係であるが、二月中旬まで基地大隊が在島して防衛召集とか対村民関係をやっていたらしく、これが沖縄本島転出後、防衛隊は私の指揮下に入れられたが、対村役場の関係は全くなかった。もちろん、米軍が上陸前に出撃してしまう隊長に、米軍上陸後の相談などする必要はなかったのであり、従って、村当局が米軍上陸に備え、どこから指令を貰い、どのような計画を持っていたかは今もって疑問である。また出撃失敗後、船舶団長大町大佐より戦隊及び配属部隊を指揮して渡嘉敷島を死守するよう命ぜられたが、村民に関してはなんらの命令、指示も受けずに戦闘に突入したのである。
顧みるに、三月二一日夜、舟艇出撃の諸準備完成を機に、私は渡嘉敷部落に帰り、村長以下村の有志と夕食を共にし、今日までの協力を感謝すると共に、今後の協力を要請したのであるが、両者の意志疎通をはかるため、早くから更に多くのこの様な機会を持つべきであったと反省している。
以上のような状況下で彼我の戦力を比較する時、無限大の米軍の上陸を迎えたのであるが、水際で万才突撃を敢行していたならば、一瞬にして玉砕し、島の歴史は今と大きく変っていたであろうし、またこのような嫌な問題は起きなかったであろう。

軍民ともに防ぎょの苦しさ味わう
しかし、舟を失った私は任務を沖縄本島の支作戦であると解釈し、渡嘉敷島にできるだけ多くの米軍を、できるだけ長く拘束して主作戦正面の戦闘に寄与しようと決心したのである。あたかも眞田幸村が上田城に秀忠二万の軍を拘束して、関ケ原の戦に参加させなかった様に。軍隊とは華々しく戦って散るものだと思っている人々にとって、あるいは卑怯な様に思えたかも知れないが、これを行った渡嘉敷島の軍隊及び村民は、とうてい口では表現できない持久防ぎょの苦しさを味わったのである。それは、当時の世相として捕慮になれば、本人はもちろん家族まで村八分になり、その地に居られなくなると信じられている時、残念ながら部隊の軍人の中から数名の脱走者を出し、また幸にして村民側にはなかったが、部隊では新開中尉をはじめ、十数名の栄養失調による戦病死者を出したことで、その苦しさの一端は容易に想像できるだろう。
疲労しきって満足に歩けない身体で、黙々と壕を掘り、射たれっ放しで乏しい弾薬をもってただただ敵の近接を待つのは(主陣地では、小銃のみ三〇メートル以上の射距離での射撃を禁止した)、異常なる精神力を必要としたのである。このような状況下においても、大半の村民が八月一二日に集団投降するまで、軍と共に苦しい中を頑張ってくれたことは、唯々感謝のほかなく、他の地区に例を見ないのではないかと、今もって信じている。

村民のなかに憎しみや悪意はない
ただ三〇余名の方が、私の勧告にもかかわらず、八月二四日の武装解除まで軍と行動を共にせられ、戦後他の村民との間になにか溝ができたかに聞いているが、あるいは村民の集団投降がもう少し遅れ、八月一五日を迎えていたなら、村の歴史も少しは変っていたであろうと思うのは私の考えすぎだろうか。また、伊江島の人々が米軍の保護下で渡嘉敷の部落で生活していたことも、苦しい山の生活をつづける村民にとっては大きな苦痛であったであろう。
八月二四日、米軍に武装解除された部隊を、涙を流して送ってくれた村民、昨年三月、慰霊祭に旧部隊のものをあたたかく迎え、夜の更けるのを忘れて語り合ったとか、また島に上隆できなかった私に、わざわざ土産を持って那覇まであいに来てくれた村民に、私はあの島の戦史にあるような憎しみや、悪意を見い出し得ないのである。
どうか私達を信じてほしい。そして私達が沖縄の人々と共に、苦しい闘いを共々に協力して戦い抜いた様に、次の世代の若い人々も、仲良く将来の日本を背負って頂きたい。


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資料1(過去エントリー)
大江健三郎を擁護する。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071110/p1
■誰も読んでいない『沖縄ノート』。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071111/p1
■梅沢は、朝鮮人慰安婦と…。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071113/p2
大江健三郎は集団自決をどう記述したか? http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071113/p1
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