文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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小沢を知らずして日本の政治を語るなかれ!!!!


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小沢一郎とは何か。いよいよ小沢一郎が、政治家としての最後の勝負に出てきた。のるか、そるか。小泉みたいな、「後は野となれ山となれ」というような、無責任な、一発勝負的な「パフォーマンスごっこ」としての勝負ではなく、一個の豪腕政治家としての責任感からの、日本の政治的未来を左右するかもしれない本格的な政治的勝負である。それういう大勝負の舞台を構築し、大立ち回りを演じることが出来るのが小沢一郎だろう。そこで、僕は、あらためて「小沢一郎とは何か」について考えてみたいと思う。かつて、小沢一郎に、わが師・江藤淳は、「引退のススメ」を説いたことがある。小沢が、一時の勢いを失って、政界で孤立し、失意の状況にあったころのことだ。西郷隆盛のように、政界を引退し、岩手の田舎に隠棲せよ、そして時期を待て、いずれ日本国中に「小沢一郎待望論」が沸騰するはずだ、というわけである。しかし、小沢は引退しなかった。その後の小沢一郎の苦難の政治生活は誰でも知っているだろう。誰もが小沢の時代は終わった、小沢神話は崩壊した、と思っていたはずである。僕も内心では、そう思いかけていた。そこが、われわれ凡人の思考の限界である。しかし小沢は小沢である。小沢はどん底から這い上がってきた。小沢には、凡人には窺い知れない何かがある。今ごろになって、小沢神話が復活するなんて誰が信じただろう。僕は、この勝負の結果にはさほど興味が無い。小沢が政治の表舞台に立つことを期待はしているが、しかしそれほど熱い期待ではない。小沢には、「小泉・安倍」型のネオリベ的な自民党売国政治に終止符を打ってもらいたいだけだ。小沢は、おそらく権力を握っても、早々にその権力を手放すだろう。小泉や安倍のように、意地汚く権力にしがみつくことは無い。そして今度こそ、田舎に引き篭もり、隠遁生活に入るだろう。それでこそ小沢一郎である。

小沢 一郎

(小澤 一郎、おざわ いちろう、1942年5月24日 ‐ )は、日本の政治家。衆議院議員(13期)。民主党代表(第6代)。

自治大臣(第34代)、国家公安委員長(第44代)。自由民主党幹事長、新生党代表幹事、新進党党首(第2代)、自由党党首、民主党代表代行を歴任。

生い立ち

東京市下谷区(現:東京都台東区御徒町に弁護士で東京府会議員だった父・小沢佐重喜 母・みちの長男として生まれる。本籍地は岩手県水沢市(現:奥州市)。3歳から14歳まで郷里の水沢で育つ。
水沢市立東水沢中学校二年次に文京区立第六中学校に転校し、東京都立小石川高等学校卒業後、弁護士になるため東京大学を目指して2浪したが断念して(2浪目に京大受験説がある)、慶應義塾大学経済学部に入学する。

政界入り

■ 父の急死により、司法試験受験のために入学した日大大学院在学中の1969年、第32回衆院選に旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選する。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、以後木曜クラブ田中派)に所属し、田中の下で薫陶を受ける。
■党総務局長、衆議院議院運営委員長、第2次中曽根内閣第2次改造内閣では自治大臣国家公安委員長を歴任する。しかし、ロッキード事件により党籍を離れたものの、引き続き派閥の領袖として影響力を保ち続けようとする田中に反旗を翻した竹下登金丸信らとともに派内勉強会「創政会」を結成。のちに経世会竹下派)として独立する。竹下内閣の発足後、小沢は党・政府の要職を歴任し竹下派七奉行の一人に数えられた。(皮肉なことだが一時的に担いだはずの竹下登はやがて闇の領袖となり田中支配が竹下支配に衣替えしただけのことになってしまう。)

竹下派支配

■ 竹下内閣では内閣官房副長官に就任。
■第1次海部俊樹内閣では党幹事長に就任。自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集め、第39回衆院選に勝利するなどの実績から「豪腕」と称された。
湾岸戦争に関連し国会で公明党の協力を得るため、東京都知事選挙で党都連が推す現職に代わり新人を擁立。しかし敗北したため責任をとり党幹事長を辞任したが、直後に経世会会長代行に就任。名実とともに派閥のNo.2となり、姻戚関係である竹下、金丸と共に「金竹小(こんちくしょう)」と称される。しかし次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、竹下との確執を深めていった。
■ 海部内閣が政治改革を巡り総辞職を余儀なくされると、金丸から後継首相になるよう説得される。金丸の意を受けた渡部恒三なども必死に説得し、また渡辺美智雄宮沢喜一などには「俺たちは降りるからおまえがやれ」と言われたそうだが、当時49歳であり若すぎる事を理由に、これを固辞する。また6月に心臓病(狭心症)で倒れ健康不安説が出た。
■1991年10月10日、自由民主党総裁選挙において派閥として支持する候補者を決定するために、出馬表明していた宮沢喜一渡辺美智雄三塚博と自身の個人事務所でそれぞれ面談した。しかし宮澤や渡辺のような当選回数・年齢も上の者(三塚は年齢こそ小沢より上だが、当選回数は小沢よりも一回少ない)を自分の事務所に招いたことは傲慢であると批判された。このことは後々まで「経世会支配」「豪腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられた(小沢は、「当日はホテルの会場が満室でどこも予約できなかった」と弁明し、宮沢は後に私の履歴書の中で、「支持をこちらからお願いしているのだから、出向くのが筋であった」と回顧している。)。

竹下派分裂、羽田・小沢派結成

■1992年、東京佐川急便事件を巡り金丸が世論から激しい批判を受け、派閥会長を辞任、議員辞職した。後継会長に小沢は竹下派七奉行のうち金丸に近かった渡部恒三奥田敬和らとともに羽田孜を擁立し、竹下直系の小渕恵三を推す橋本龍太郎梶山静六らと対立。当初中立であった参院竹下派に派閥オーナーである竹下自らが関与して小渕支持を決定、この結果として後継会長は小渕に内定した。政争に敗れた小沢は羽田、渡部、奥田らと改革フォーラム21(羽田・小沢派)を旗揚げし、派閥は分裂した。
宮沢喜一改造内閣での羽田・小沢派の閣僚ポストは、経済企画庁長官(船田元)と科学技術庁長官(中島衛)の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山が就任したことで、羽田・小沢派は反主流派に転落した。小沢はこの苦境を覆すために、持論であった政治改革の主張を前面に立てて、自らを「改革派」と呼び、主流派には「守旧派」とレッテルを貼って世論の支持を獲得しようとした。
■1993年2月17日、 佐川急便事件に関して証人喚問を受ける。

自民党離党、細川内閣成立

■ 野党から宮沢内閣不信任案が上程され、1993年6月18日、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。宮沢内閣は衆議院を解散した。6月21日には、武村正義田中秀征らが自民党離党、新党さきがけを結成した。 この事は羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日、新生党を結成した。小沢は幹事長にあたる党代表幹事に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に不在であったため「党首に就任した羽田の陰に隠れて暗躍している」との批判を受けた。
■7月18日、第40回衆院選において自民党過半数割れし、新生党日本新党新党さきがけの3新党は躍進した。宮沢は内閣総辞職を表明し、後任の自民党総裁河野洋平が選出される。
■ 小沢は、総選挙直後から日本新党代表の細川護煕と非公式に会談した。細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民勢力へと傾斜する。8月9日、8党派連立の細川内閣が成立した。
細川政権下で小沢は内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長の市川雄一とともに政権の主導権を握ろうとし、内閣官房長官として官邸主導を狙うさきがけ代表の武村と激しく対立した。
■1994年2月3日、細川は未明に突如、消費税を廃止して7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を発表し、世論の激しい反発にあう。これは小沢と大蔵省事務次官斎藤次郎を中心に決定したことであったが、社会、さきがけ、民社各党の批判に合い、翌日細川は国民福祉税構想を白紙撤回するに至った。特に官房長官の武村は公然「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言し、小沢との対立はますます先鋭化する。そのため小沢は細川に武村を外すための内閣改造を要望するも、一連の動きに嫌気がさした細川は、4月に突然辞意を表明した。

改新騒動、羽田内閣

■細川の突然の辞意は、小沢にとっては寝耳に水のことであったが、直ちに後継首班に向けて始動する。小沢は渡辺美智雄との提携を企図するが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫、連立与党は羽田の後継首班に合意する。しかし、首班指名に先立ち1994年4月25日、新生党日本新党民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、4月26日、社会党は連立政権を離脱を発表する。連立与党側は社会党の連立政権復帰に努力したが、時既に遅く4月28日、羽田内閣は少数与党内閣として成立した。
■ 小沢と羽田の関係に微妙な影が差し始めたのはこの時期からである。羽田内閣は平成6年度予算を成立させたが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。当初は羽田も解散する腹で小沢も同調していたが周囲の声を聞くにいたってトーンは下がり解散総選挙を断念。6月25日に内閣総辞職を選択し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。

野党転落、新進党結成

■小沢が羽田の後継として狙いを定めたのは、かつて自民党幹事長としてタッグを組んだ元首相の海部俊樹であった。海部は当時自民党政治改革議員連盟会長で、新政策研究会(河本派)代表世話人でもあった。1994年6月29日、自民党首班指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し「自由改革連合」を結成、連立与党の首班候補となる。しかし決選投票で261対214で村山に敗れ、小沢は政治家人生初の野党に転落する。新生党内では、愛野興一郎らを中心に、小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するためには、小沢の豪腕が必要とされた。9月28日、日本共産党を除く野党各党187人が集まり、衆院会派「改革」の結成を見た。また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。
■小沢を中心に新・新党結成が準備され、同年12月10日に新進党結成大会が行われた。小沢は党首に海部を擁立し、自らは党幹事長に就任する。
■1995年7月、第17回参院選では、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得し躍進した。平成7年(1995年)12月に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突する。小沢は羽田を破り、第2代党首に選出された。しかし直後に投票者名簿が破棄されるなど選挙が不明瞭さを残した事から羽田との決裂は決定的なものとなり、党内に更なる亀裂を生じさせた。
■1996年10月20日に第41回衆院選が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として消費税率の3%据え置き、18兆円減税を公約したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席を獲得、事実上敗北した。

新進党解散、分裂

■ 総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜細川護熙らは非主流派を構成し、1996年12月26日、羽田、奥田敬和ら衆参議員13名は新進党を離党、太陽党を結成する。1997年、小沢は自民党(当時)の亀井静香らと提携する、いわゆる「保保連合」路線に大きく舵を切る。しかし新進党内には、こうした保保連合路線に対して二大政党制を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、鹿野道彦は政策研究会「改革会議」を結成する。
■12月18日の党首選挙で小沢は鹿野を破り再選された。この党首選に先立ち公明が次期参院選を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速する。党首に再選された小沢は、純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求。12月25日に小沢は旧公明党参院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の解党と新党の結成を発表した。新進党内は蜂の巣をつついたような混乱に陥り、解党を決定した両院議員総会は、混沌の内に終わった。

自由党結成

■ 1998年1月6日、自由党を結成、小沢は党首に就任する。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆院議員42名、参院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を民主党に譲り渡した。
■ 1998年7月12日の第18回参院選では苦戦必至と思われていたが小沢人気もあり比例代表で514万票、合計6議席を獲得し善戦した。参院選後の臨時国会では、首班指名民主党代表の菅直人野党統一候補に臨み、参院では自民党小渕恵三を抑え菅が指名された。(衆院では小渕が指名されたため、衆議院の優越の原則から小渕が首相に就任した。)小沢は参院での野党共闘により政府・自民党を追い込む戦略であったが、菅は「政局にしない」と発言、金融再生法の制定で自民党と協力したことにより野党共闘はほころびを見せた。

自自連立

■ 1998年10月、小沢は内閣官房長官野中広務と会談、連立交渉を開始する。そして紆余曲折を経て1998年11月19日、小渕首相との間で自自連立政権について合意した。
■ 1999年1月14日正式に自自連立政権が成立し、党幹事長の野田毅自治大臣として入閣、小沢は5年ぶりに与党へ復帰する。
衆議院議員定数50削減、閣僚ポストの削減、および政府委員制度の廃止と党首討論設置を含む国会改革がこの連立の主な成果として挙げられる。

自自公連立、連立離脱、自由党分裂

■ 1999年7月、公明党が政権に参画し、自自公連立政権が成立する。自民、公明両党で参院過半数を抑えることになったため政権内部での自由党の存在感は低下していった。自自両党の選挙協力も遅々として進まず、小沢は自民党総裁の小渕総理大臣に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。両者は2000年4月1日、会談するが、合意に達せず、結局連立を解消することになる。この直後、小渕は脳梗塞に倒れた。
自由党は、小沢を支持する連立離脱派と野田毅二階俊博などの連立残留派に分裂し、残留派は保守党を結成する。小沢と袂を分かった保守党側は、半分に分裂するのだから政党助成金を半分づつ分け合うために分党を要求したが、自由党側はこれを拒否。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることになる。分裂の結果、自由党の勢力は、衆議院議員18名、参議院議員4名、計22名に半減した。
■ しかし分裂直後に行われた2000年6月25日の第42回衆院選では苦戦が予想されたが小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦する。このとき約20億円投じたとされるテレビCM(小沢が顔を殴られる)は話題になり、自由党が善戦した要因の一つとされる。
■平成13年(2001年)1月、将来の指導者育成を目指し、党内に小沢一郎政治塾(小沢塾)を開設した。小沢塾は民主党との合併後、小沢個人の私塾として運営されている。
■2001年7月29日の第19回参院選では小泉ブームで自民に追い風が吹き、小沢王国である参院岩手選挙区も大苦戦を強いられたが、なんとか僅差で勝利し面目を保った。しかし、議席数は前回と同じ6を維持したものの、自由党比例代表は約420万票にとどまった。

民由合併

■ 2002年、民主党代表の鳩山由紀夫は、党内の求心力を強化するため野党結集の必要性を感じ、小沢に接近した。当時、小沢自身も選挙区での支持母体が崩壊しており自由党で選挙を戦うには限界を感じていたため、2人の思惑が一致した。
■鳩山は民主党自由党の合併に向けた協議を行うことを発表するが、党内調整が不十分であったため、求心力を強化するつもりが皮肉にも求心力を失い代表辞任を余儀なくされる。党代表に再び選出された菅直人は鳩山路線を引き継いで民由合併を促進、菅と小沢の間で合併は党名・綱領・役員は民主党の現体制の維持と言うことで合意が成立する。また選挙が近いという議員心理が合併を後押ししたと思われる。
■2003年9月26日、自由党民主党と正式に合併し、小沢は党代表代行に就任した。2003年11月9日の第43回衆院選民主党政権交代への期待もあり公示前議席よりも40議席増の177議席を獲得した。
■ 民由合併後、小沢が最初に提携したのが旧社会党系の横路孝弘だった。小沢と横路は安全保障面での政策を擦り合わせ、その後横路と旧社民勢力は小沢と行動を近くすることになる。また小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが、これは失敗した。2005年の郵政解散直後は社民党民主党に対する批判を控えて民主との合併を匂わせる態度を見せるも対中強硬派の前原が代表に就任したためか一旦流れている)
民主党に移った小沢はそれまでの新自由主義一辺倒から「地方経済」と「雇用」の重視の方針を打ち出した。
■当初、小沢派になると見られていた新自由主義的な「小さな政府研究会」には参加せず、東北出身議員だけをあつめて「東北議員団連盟」を結成し、地域主義への転向の姿勢を見せた。

一兵卒

■ 2004年5月、年金未納問題による混乱の責任を取り党代表を辞任した菅直人の後継代表に内定。しかし直後に小沢自身も国民年金が強制加入制度になる1986年以前に未加入だったとして代表就任を辞退した。代わって党幹事長だった岡田克也が代表に就任した。
■ 2004年7月11日、第20回参院選では政府与党の年金法案が争点となり、それに反対した民主党に追い風が吹き、選挙区と比例代表合わせて50議席を獲得し、改選議席数で自民党(49議席)を上回る勝利をおさめた。小沢は参院選後、岡田の要請により党副代表に就任。
■ 2005年9月11日、郵政民営化の是非を争点にした第44回衆院選が行われる。争点の設定に成功した自民党に追い風が吹き、郵政民営化に対する対立軸を示せなかった民主党は惨敗する。岡田は党代表の辞意を表明。小沢の片腕と言われ、党派を超えて一目置かれていた藤井裕久も落選・引退する(後に撤回し、現在は政界復帰に意欲的と見られる)。党代表に前原誠司が選出され、小沢は党代表に次ぐポストである党代表代行就任を依頼されたが、岡田執行部の党副代表であり総選挙惨敗の責任の一端があるとして、これを固辞した。

民主党代表就任

■ 2006年3月31日に前原誠司がいわゆる「堀江メール問題」の責任をとる形で党代表辞任を表明した後、小沢は「先頭に立って党を再生して政権交代ののろしを上げる決意」と記者会見で述べ、後継代表に重い腰を上げた。
■2006年4月7日に行われた民主党代表選で菅直人を破り、党代表に選出された。代表選期間中に行われた各社世論調査での国民の期待は軒並み小沢が優勢であり反小沢結集の流れはできなかった。代表選後、小沢は、党内外に挙党一致体制をアピールするため、党代表の座を争った菅を党代表代行・鳩山由紀夫を党幹事長にするトロイカ体制を敷いた、また前執行部と、その次の内閣を全員残留させた。
■ 小沢が党代表に就任した直後、2006年4月23日の衆議院千葉7区補欠選挙では、メール問題での逆風から当選は難しいと思われていた。だが、小沢新代表を選出した民主党への期待により、僅差ながら勝利し、選挙に強いという小沢神話が復活した。これにより党内の求心力が高まり、2006年9月12日、無投票で民主党代表に再選された。
■ 2006年5月9日の会見で、衆院本会議を欠席しがちな理由として「食後すぐに仕事にとりかからないなど、医者の忠告を守っている」と自身の体調管理を挙げたことに関し、「議会軽視だ」と各方面から厳しい批判を受けた。また、自身の健康状態を語ったことに対して様々な憶測が流れた。
■2006年9月25日、臨時党大会で正式に代表に再選された後、狭心症の発作の兆候を感じたため、都内の病院に検査入院をする。平成3年(1991年)に狭心症で入院した過去もある。10月5日に退院し、自身の動脈硬化が進んでいることを明らかにした。
■ 2006年10月22日の衆議院神奈川16区・大阪9区補欠選挙は、神奈川16区の選挙責任者を党代表代行の菅直人大阪9区の選挙責任者を党幹事長の鳩山由紀夫で役割分担をし、総力戦を展開した。しかし、両選挙区とも数万票差で与党候補に敗れた。安倍政権誕生、両選挙区ともに与党議員死去による弔い選挙といったことが理由であるとの見方が多いが、北朝鮮核問題で民主党としての態度を明確にしなかったこと、安倍内閣発足時に入院し健康不安を招いたことも少なからず影響したと考えられる。
■また自身が代表に就任してから、政令指定都市都道府県の首長選挙に関しては原則相乗り禁止の方針を打ち出したが、滋賀、和歌山、長野、宮崎県知事選では推薦候補を立てられなかった。一方、福島、沖縄、愛知県知事選等では野党共闘で対決姿勢を明確したため評価される。2007年の統一地方選では、13都道府県の首長選のうち、北海道、岩手、福岡で独自の推薦候補を擁立する一方、三重、福井で与党との相乗りを許した。
北朝鮮が核実験を行った後の朝鮮半島情勢は周辺事態法を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢一郎トロイカ体制の見解を発表した。しかし、前原誠司前代表を始めとする党内から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表した。これにより、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。
■「核武装論議を是認すれば『非核三原則を守る』という言葉も国民や国際社会に受け入れられない」と指摘した。しかしその考えに不満を持つ一部保守層などが、自由党党首時代の2002年「日本は一朝で数千発の核弾頭を持てる。」と日本の核保有能力について発言したことと比較して批判した。
防衛庁の「省」昇格に対し、「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。民主党は党内に反対の声が依然あったため衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議に欠席したが、沖縄県知事選での敗北を受け「省」昇格法案の賛成に回った。ちなみに自由党時代、小沢は防衛庁の省への昇格を主張していた。念願がかなった事になる。
■2006年11月の福島県知事選では社民党沖縄県知事選では共産党社民党などと共闘を行った。福島県知事選では与党推薦候補を破ったが、沖縄県知事選では与党推薦候補に敗れた。沖縄県知事選で共産党社民党など民主党とは支持層や政策の異なる政党と共闘し敗れたことから、野党共闘のありかたについて見直しを迫られることになる。
■2007年2月4日に参院選の前哨戦といわれた愛知県知事選と北九州市長選が行われ、北九州市長選は野党推薦候補が勝利、愛知県知事選は事前調査での劣勢を挽回したものの与党候補に惜敗した。この善戦は柳澤伯夫厚生労働大臣による「(女性は)出産する機械」発言に対する批判票が民主党推薦候補へ流れたためと見られている。この間の国会において、小沢は柳沢厚生労働大臣が辞任するまで審議を拒否する戦術を主導し、辞任に追い込むことに失敗したものの「柳澤発言」の争点化に成功した。一方、耐震補強など重要な内容を含む補正予算の審議を拒否することに対し、野党が国会議員の責任を放棄したと批判する意見もあった。
■ 2007年の参議院選挙に向けて「生活維新」を掲げた民主党の宣伝CMに出演して話題を呼んでいる。しかし春先まで全国に流されていた第1弾のCMでは小沢代表が船頭から吹き飛ばされるシーンがあり、「入院騒ぎを思い出す」と一部から顰蹙を買った。このCMは小沢・菅・鳩山というトロイカ参院選への党のアピールを狙ったものと見られる。また、第 2弾は旧自由党時代に好評を博していた「小沢CM」特有の小沢の強烈なキャラクターを強調した奇抜さは全く見られず、期待外れという声もある。
■2007年4月8日に統一地方選挙の前半戦が行われた。岩手県知事選で、小沢チルドレンの代表格であり秘蔵っ子の達増拓也が当選する。2位以下に3倍近い差をつける圧勝ぶりで小沢王国健在を見せ付けた。また岩手県議選でも過半数は獲得できなかったものの議席を増やし第1党を維持した。自民VS民主の対決になった5つの知事選では2勝3敗で負け越したものの、道府県議選・政令市議選では民主党は205人から175人増え375人に躍進した。道府県議が参院選の実働部隊であるため、2004 年以上の圧勝が予測される。2004年の参院選では、投票一週間前に民主党の支持率がはじめて自民党を超えたが、今回は1ヶ月以上前から民主党自民党の支持率を上回っているため、89年の参院選の再来を予測するメディアもある。
■2007年4月22日に夏の参院選の前哨戦といわれた統一補欠選挙参院沖縄で惜敗したものの、参院福島で圧勝し1勝1敗と代表としての面目を辛うじて保った。しかし2選挙区ともに元々野党の議席であり、参院選で与党を過半数割れに追い込むハードルが1議席高くなった。共産党と共闘した昨年末の沖縄県知事選に続き参院沖縄での敗北は、今後の共産党との選挙協力関係を遠ざける結果になるものであり、野党間選挙協力政権交代戦略にとってのダメージは大きい。同日行われた統一地方選挙の後半戦では市町村合併の影響か市議選で、自民党が過去最低議席数になり、共産党社民党議席を減らす等、他党が大きく前回議席を割り込む中、民主党は3割近く議席を伸ばした。
■ 2007年4月28日、憲法施行60年特別フォーラムで、民主党の若手議員のリーダーである枝野幸男が「国民投票法案がこういう(与野党の合意形成ができない状況になった)ことになった責任は安倍首相(自民党総裁)と小沢民主党代表にある。早く(自民、民主)両党の党首が変わればまっとうな(憲法)議論ができる。」と述べた。しかし枝野は民主党憲法調査会長であり、この問題では小沢代表と並ぶ党の責任者である。
■ 2007年7月、同年7月29日の第21回参議院議員通常選挙で野党で過半数議席を獲得できなかった場合は、民主党代表を辞任した上、政界引退することをを明らかにした。

事務所費問題

■ 2007年1月、自身の資金管理団体陸山会」が2005年分の政治資金収支報告書に4億円を超える不透明な事務所費を計上していることが発覚した。鳩山幹事長は『(小沢から)「東京都世田谷区内に約3億6500万円相当の土地と建物を購入し、費用を事務所費として計上した」と聞いており「全く問題ない」』と反論した。
■自身の資金管理団体が10億円を超す不動産を保有し(小沢個人名義で保有)、またその一部を賃貸運用していることなどが発覚し物議を醸した。それに対し小沢は1月の衆院代表質問で、これらの「支出の詳細、領収書、関係書類を含め公表する用意がある」とし、同じく事務所費問題を抱える自民党に対し、大臣など責任ある立場の議員に公表を迫った。
■ 2月20日、国会内での記者会見で、東京・世田谷区に約3億7000万円の秘書宿舎を建設し、加えて不動産取引の仲介手数料や登記費用として1100万円を計上したという、2003年〜2005年の事務所費などを公開した。公開に対し「一歩進んだ」と好意的にとらえる社説が多い。一方、10億円は国民の常識からかけ離れているとの批判も残っている。同時に、資金管理団体の小沢名義の資産を個人資産にしないという確認書を公開した。しかし、小沢が亡くなった場合、確認書はただの紙になるため、遺産として家族に相続される可能性が全く無くなったとは言えず、公正証書として遺言書を残すべきだとの意見を述べる者もある。ただし現在の法律では問題は無い。またこれらの書類公開に際しては、報道陣に領収書などの撮影、コピーを許可しなかった。
自由党民主党からの収入が不動産取得に使用されたため、(個人の資産に)税金を投入したとの批判を受けた。だが、岡田克也から「引き継いだのは小額だった」と一蹴された。
■ 小沢代表が事務所費を公表した後に事務所費を公表した議員は一人もいない。

国会運営

小沢の国会での論戦は、前代表である前原誠司の「対案路線」ではなく、「対立軸路線」で与党とは対決姿勢を鮮明にしている。自著の「日本改造計画」では、「過半数が賛成している案を、少数のダダっ子がいて、その子をなだめるために、いいなりになってすべてを変えてしまう」のは「少数者の横暴」だと述べている。小沢は今でも「審議を十分に行えば」与党による採決も止むを得ないという一貫とした立場だ。しかし審議も十分に行わずに数の横暴で強行採決した場合には徹底抗戦や審議拒否も辞さない戦う野党の姿勢を示している。選挙を優先し、重要な場面・法案を除き党の会合や衆院本会議を度々欠席することに党内からは不満の声も聞かれる。ただ、今のところ大きなミスは無いため反小沢の動きは表面化していない。

主な政治的主張

自身の政治理念、政治的信念に関しては一切の妥協をしない。特に憲法国際法・国際機関の憲章などの原則には厳格である。一方で、中期的・大局的な時代の流れに関してはむしろ柔軟に対応する。それをブレていると批判する声もある。政党をつくっては壊す過去に不信感を抱かれ、度々非難を受けた。 2006年4月の代表就任後は、「ニュー小沢」をアピールするためのイメージ戦略を行った。憲法自衛隊など国の基幹となる政策を棚上げしても他党との選挙強力を優先するため、党内外から批判を受けることがある。

憲法改正憲法96条)の為の国民投票法
与党の国民投票法案には反対。
世論調査で国民の半数が2007年の通常国会での与党案の成立を支持したことに対し)「党の方針はすでに決まっている。変更する状況ができない限り、変更されることはない。」と与党案に反対する姿勢を明確にした。しかし、改憲に賛同する民主党内の勢力は小沢の方針に反発しており、今後改憲を睨んだ政局の再編がなされるのではという憶測も一部では流れている。
憲法9条問題
専守防衛」に徹する。
憲法前文の平和主義と憲法9条の第一項と第二項は保持。第9.5条として平和のための国際協力と国連待機軍の設置を付加。
憲法を一部改正して国連待機軍を創設し、自衛隊は国防に専念させる。
個別的であれ集団的であれ、自衛権は我が国が急迫不正の侵害を受けた場合に限って行使。急迫不正の定義は明確にしない。
戦争には前線も後方支援も関係はない。
集団的自衛権」(イラク戦争型)の行使 ‐ 一部国家による有志連合の参加には反対。
「集団安全保障」(湾岸戦争型)の行使 ‐ 各国が容認した国連軍、多国籍軍の参加には賛成。
核武装
軍事的、政治的にも何のプラスにもならない。議論もしてはいけない。党内には、核保有を認める意見や核武装を議論すべきとの意見があり、北朝鮮核問題を受け党内の分裂が表面化した。
A級戦犯靖国神社
東京裁判は不当な報復裁判であり、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない。ただし当時の国家指導者は敗戦責任があり、天皇陛下が参拝できるよう靖国神社から削除すべき(分祀ではない。分祀をしても靖国神社に英霊が残るため。)。
行く行かないは個人の自由。ただし公約をし、政治信念で行くのならば8月15日に公式参拝を行うべき。
靖国神社戊辰戦争の招魂社だと言う問題がある。私は賊軍の岩手出身だ。
日米中関係
最も重要なのは同盟を結んでいる日米関係だが、沖縄県知事選で「反日米安保・反自衛隊」が持論の候補を推薦し与党からはまとまりがないと批判された。
日米中は二等辺三角形でも正三角形でもどんな形であれ正常な関係にならなければいけない。
日中の指導者の人的交流を緊密化する長城計画を推進している。
在日外国人の地方参政権
ヨーロッパの先進諸国の動向をみても、外国人の地方参政権導入は世界の常識。しかし、日本はヨーロッパのような状況ではない。
旧植民地政策により日本に移住、戦後そのまま在住した外国人・その家族には歴史的事情を勘案し、法的・制度的にも許容されるべき。しかし一番良い方法は「帰化をして日本国籍を取得」
労働組合との関係
未組織労働者や市民層からの支持を増やすことで協調的に労組との関係を維持する。
社会保障、年金
厚生年金、共済年金国民年金、それに議員年金も含めすべての年金を一元化
1人月額6万円を支給する基礎年金と従来の保険料方式を維持した所得比例年金の2階建て。
消費税は5%のまま全額を福祉目的税化する。しかし、消費税5%分(約13兆円)だけでは年金の基礎部分を賄えないため、基礎部分を社会保障セーフティネットとして扱うべきとしてきた党の理念が変わったとの批判を受ける。これに対し、「給付する人を低所得者に限るため、13兆円で足りる」と反論した。しかし、13兆円では、国民の半数にしか年金は給付されない。
教育改革
与党案とは異なる民主党独自の「教育基本法」の制定。5歳から高校まで義務教育を広げる。
子ども手当て」と親と同居の「親手当」。
教師などの教育職員は国家公務員として身分を安定させる。その代わり争議権を認めない。
農業改革
農産物の全面自由化、食料自給率100%の実現。しかし、農業が国際競争力で大きく水をあけられている現在、農産物の自由化による効果を疑問視する見方もある。また、自給率100%を実現するには、現在の農地の面積を3.5倍にする必要がある。
「個別(戸別)所得補償制度」を導入し、自由化に伴って、大規模な農業からの離職・農地の放棄がおこなわれるのを防ぎ、自給率の向上を目指す。
格差是正
管理職は自由競争だが、非管理職は終身雇用。
社会的格差の是正
挫折した経営者・労働者の再起、再就職の支援制度の拡充。
経済
格差社会を広める新自由主義には反対。(しかしかつての著書「日本改造計画」では新自由主義色の濃い政策を主張したため、主張がブレているのではないかとの批判を受けた。)
小さな政府ではなく、官で出来ることは官で、民で出来ることは民で。無駄な公共事業を極力減らしていく方針。
地方分権
補助金を地方に一括交付。
市町村を300程度に集約。

人物

田中角栄は「黙々として人のために汗を流している。愚痴はいわない。こういう奴がのびる」、「一郎はえらくなる。あれはそこらの連中とはモノがちがう」と評した。角栄の長男は5歳で早くに亡くなったが、その長男と小沢は同じ1942年生まれであったため、角栄は小沢を息子のようにかわいがった。
田中派から独立した経世会に所属した国会議員で唯一、田中の裁判をすべて欠かさず傍聴した。旧田中派の中では唯一田中家・田中真紀子から許されているため、現在でも命日には田中家を訪問している。そのため親交が深く、田中真紀子自民党離党、民主党会派入りに小沢は尽力している。また、「政治の父は田中角栄」と公言している。
金丸信は小沢、羽田孜梶山静六の3人を「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評した。
石原慎太郎は「私は彼を評価しません。あの人ほどアメリカの言いなりになった人はいない」と評した。
■「豪腕」「壊し屋」「日本最後の政治屋」と称され、「政治とは権力闘争である」という政治観の持ち主である。平成不況の最中、政治改革などを主唱して権力闘争に明け暮れていると見た財界主流派からは批判された。
■「(議員の)数は民主主義」と常に唱え、また実行しているため、手段を選ばない政治家だと誤解されることもある。与党には数は民主主義なのだから何でも自由に決めればよいと常に言っているが、「(野党との)議論を尽くせば」という前提がある。
■愛称は、いっちゃん。周囲からは東北人気質も相まって朴訥な人物と評されている。そのことから説明する努力に欠け、側近が離れる一因となっていると指摘される。本人曰く「去るもの追わず。来るもの拒まず」
■ 趣味は、釣り、囲碁など。また熱心な漫画愛好家で、自宅には漫画専用の本棚がある。
■「胡錦鳥」と言う小鳥を40〜50羽飼っている。
■ 柴犬を飼っている。名は「ちび」。19歳と高齢なため今は散歩はできない。
■ 2006年の衆議院補選でCMに柴犬の「もも」を起用。補選で「もも」は小沢代表や候補者たちの応援に出向き話題をさらった。小沢いわく「もも」は愛犬「ちび」によく似ているらしい。
■ 歴史上の人物では、西郷隆盛を尊敬するものの、政治家としては、大久保利通を目指していると述べている。
■党内外での小沢アレルギーは強いが、若手よりも当時を知る議員に強い。「独断専行、側近政治、顔が見えない」との批判や、自民党分裂とその後の分裂工作、新進党分裂・解党の後遺症が挙げられる。
新生党代表幹事時代には番記者との懇談会を廃止し、これまでの記者クラブ中心の会見から海外メディアや週刊誌記者なども会見に参加できるようにし注目を集めたが自分の意に沿わぬ記事を書いたメディアと対立を起こしたりした。
自民党離党直前に発売した「日本改造計画」は政治家出版の書籍としては異例の70万部を超える売上を記録し、平成5年(1993年)を代表するベストセラー本に。自らの政策・政見を広く国民に問うもので、小沢の理念を基に官僚や専門家を中心に政策としてまとめた。また続編も計画されている。
■「豪腕」「壊し屋」と言われている側面がある一方私生活では恐妻家として知られている。
■ かつては愛煙家であったが、1991年に心臓病(狭心症)が発症したため、健康に気を遣い始め現在はタバコは吸っていない。
■ 2006年、著書を相次ぎ出版。8月に「豪腕維新」、9月1日に「小沢主義(イズム)」。特に「小沢主義(イズム)」はベストセラーになった「日本改造計画」以来13年ぶりの書き下ろしとあって、大手書店の週間ランキングではベスト3に入った。
ニートについて、以下のように徹底した自助努力を要求している。またニートの親については、「動物にも劣るといっても過言ではない」と評し、その責任を激しく糾弾している[1]。
o 本人たちは「誰の迷惑にもなっていない」と言うかもしれないが、親の稼ぎで食わしてもらっているうえ、国民全体で支える公共的サービスは享受している。病気でもない働き盛りの若者が、漠然と他人に寄生して生きているなど、とんでもない。
o 政府は「少子高齢化の進む人口減少社会で、経済の活力を一段と失わせかねない」として、今後、ニートの就職支援に本腰を入れるというが、果たしてそんな次元の話なのか。僕に言わせれば対策は簡単だ。一定の猶予を与えて、親が子供を家から追い出せばいい。無理矢理でも自分の力で人生を生きさせるのだ。追い詰められれば、彼らも必死に考えて行動するはずだ。それでも働きたくないというなら、勝手にすればいい。その代わり、親の世話には一切ならず、他人に迷惑(犯罪も含む)もかけず、公共的サービスも受けないことだ。無人島でも行って自給自足の生活でもすればいい。

一族

家族・親族

■ 父・小沢佐重喜(弁護士・政治家、元衆議院議員
■母・みち(千葉県出身)
■ 妻・和子(新潟の中堅ゼネコンの福田組会長:福田正の長女)
■ 三男あり
■ 従兄弟・染谷誠(政治家、元衆議院議員
■ 遠縁・竹下亘(政治家、衆議院議員竹下登の異母弟。妻は福田正の二女)

文献

著書

■『日米関係を読む』(アジア調査会編)、プラネット出版、1990年11月、ISBN 4881913123
■ 『日本改造計画講談社、1993年5月、ISBN 4062064820
■『語る』文藝春秋、1996年4月、ISBN 4163502106
■『男の行動美学』プラネット出版、1999年9月、ISBN 4939110028
■『剛腕維新』角川学芸出版、2006年8月、ISBN 4046210885
■『小沢主義(オザワイズム) 志を持て、日本人』集英社、2006年9月、ISBN 4797671297

共著

■『ジョン万次郎とその時代』川澄哲夫編、廣済堂出版、2001年7月、ISBN 4331507963
■『政権交代のシナリオ : 「新しい日本」をつくるために』菅直人著、PHP研究所、2003年11月、ISBN 4569631908

関連文献

■『小沢一郎の「真実」―金丸、竹下を手玉にとる剛腕幹事長』アイペック、1990年、ISBN 4870471000
■『平成名勝負物語―橋本龍太郎vs小沢一郎』小林吉弥著、勁文社、1990年、ISBN 4766912497
■ 『劇画 橋本龍太郎VS小沢一郎―激闘譜』さいとうたかを著、日本フローラルアート出版局、1991年、ISBN 4930831008
■『小沢一郎の政治謀略 : 政界の裏の裏がわかる本』菊池久著、山手書房新社、1991年、ISBN 4841300228
■『小沢一郎探検』(朝日新聞政治部編)、朝日新聞社、1991年、ISBN 4022563435
■ 『小沢一郎・全人像』小田甫著、行研出版局、1992年、ISBN 4905786908
■ 『平成動乱 小沢一郎の野望』板垣英憲著、ディーエイチシー、1993年、ISBN 4887240023
■ 『小沢一郎の秘密』佐藤淳一著、データハウス、1993年、ISBN 4887181698
■『小沢一郎日本改造計画の危険性』本沢二郎著、エール出版社、1993年、ISBN 4753912345
■『小沢一郎の逆襲 : ベールに包まれた政界再編のシナリオを読む!』竜崎孝著、サンドケー出版局、1993年、ISBN 491493809X
■『あの人 ひとつの小沢一郎論』渡辺乾介著、飛鳥新社、1993年、ISBN 4870311291
■ 『日本をダメにした九人の政治家』浜田幸一著、講談社、1993年、ISBN 406206779X
■ 『小沢一郎の腕力ポイント読み』伊勢暁史著、明日香出版社、1994年、ISBN 4870307081
■ 『小沢一郎総理大臣待望論』板垣英憲著、ジャパン・ミックス、1994年、ISBN 4883211541
■ 『どっこい小沢一郎は生きている 全発言で探る、この男の次の一手』上之二郎著、ベストセラーズ、1994年、ISBN 4584191131
■『小沢一郎真実の叫び これだけはいいたい 小沢は日本の未来に危惧を抱き、平和な国と社会のために改革を図る』蒲生輝著、三心堂出版社、1994年、ISBN 4915620778
■ 『小沢一郎日本国崩壊をすくう』蒲生輝著、三心堂出版社、1994年、ISBN 4915620956
■『小沢一郎 覇者の履歴書』奥野修司著、データハウス、1994年、ISBN 4887182457
■ 『小沢一郎の日本vs.武村正義の日本 あなたはどちらの国に住みたいか この2人がわかれば日本の将来が見えてくる』小板橋二郎著、こう書房、1994年、ISBN 4769605080
■『池田大作vs小沢一郎 どうなる日本どうなる両雄の展開』後藤寿一著、銀河出版、1994年、ISBN 4906436412
■『「小沢一郎日本改造計画」への挑戦状! 20代議員の描くキラリと光る改造計画』新党20代議員の会編著、マネジメント社、1994年、ISBN 4837803431
■『河野洋平小沢一郎大戦略 宿命のライバル』本沢二郎著、総合法令、1994年、ISBN 4893463829
■ 『悪魔の使者小沢一郎 あの強腕を裏で操るのは何者か 日本改造なんてとんでもない』ヤコブ・モルガン著、忍野昭太郎訳、第一企画出版、1994年、ISBN 4887190166
■ 『小沢ウオッチング』立尾良二著、東京新聞出版局、1995年、ISBN 4808305216
■『小沢一郎の時代』板垣英憲著、同文書院、1996年、ISBN 4810380300
■『お笑い大蔵省極秘情報』テリー伊藤著、飛鳥新社、1996年、ISBN 4-87031-293-X
■『小沢一郎 その「恐怖支配」の実態』久慈力著、マルジュ社、1996年、ISBN 4896161017
■『政治が歪める公共事業 小沢一郎ゼネコン政治の構造』久慈力・横田一著、緑風出版、1996年、ISBN 4846196143
■『盛岡大学疑惑を追及する 教育を食い物にする紳士たち』久慈力著、新泉社、1997年、ISBN 4787797158
■ 『拝啓小沢一郎党首殿』松沢成文著、ごま書房、1997年、ISBN 4341017748
■『小沢一郎の大勝負 竜馬か!?悪魔か!?』板垣英憲著、リヨン社、2003年、ISBN 4576031910
■『日本変革 菅直人小沢一郎は政治をどう変えるのか』板垣英憲著、ベストセラーズ、2003年、ISBN 4584159769
■『政党崩壊―永田町の失われた十年伊藤惇夫著、新潮社、2003年、ISBN 4106100231
■ 『闇将軍 野中広務小沢一郎の正体』松田賢弥著、講談社、2003年、ISBN 4062117061
■『永田町「悪魔の辞典」』伊藤惇夫著、文藝春秋、2004年、ISBN 4166603884
■『政治の数字―日本一腹が立つデータブック』、伊藤惇夫著、新潮社、2005年、ISBN 4106101173
■『小沢一郎の政権奪取戦略』、大下英治著、河出書房新社、2005年3月、ISBN 4309243347
■ 『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』、五百旗頭真著、朝日新聞社、2006年6月、ISBN 4022501634
■『小沢一郎の日本をぶっ壊す』、大下英治著、幻冬舎、2006年8月、ISBN 4344408217

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E4%B8%80%E9%
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