文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

月刊「サイゾー」にコメントで登場・・・。

■「月刊サイゾー」にコメントで登場・・・。


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■「月刊サイゾー」にコメントで登場・・・。

先日、「月刊サイゾー」(特集「日本の裏側が見える! タブー破りの本100冊」)の取材を受けたのだが、どういう雑誌で、全体がどういう企画なのかもよくわからないままだったので、雑誌が出来上がるのが少し心配だつたが、出来あがった雑誌が送られてきたので、開いてみると意外にまともな硬派系雑誌で、気骨のある編集姿勢とともにそのかなり過激な内容に好感を持った。「噂の真相」の後釜でもねらっているのだろうか。それなら大いにやってもらいたい。さて、僕が登場するのは、文壇のタブーとしての言論弾圧に関する下りで、戦時中の言論弾圧について語った、ごく短いコメントだけだが、文壇関係記事のメインはと見てみると、小谷野敦渡部直己の対談「日本文学はすでに死に体なのか!?」になっている。文壇には言論弾圧以前にマトモな批評そのものが排除、抑圧されてなくなった…、大江健三郎石原慎太郎、あるいは村上春樹への批判は誰もしない…、今や文壇はタブーたる価値さえ失った…、という二人の意見にはまったく同感だが、しかしその文壇情勢分析には疑問もないわけではない。小谷野は、島田雅彦を初めとして、最近は、大学院も出ていないし、また学術論文も書いていないような作家たちが文学部の大学教授になっていると、「万年非常勤講師」(笑)の立場からの嫉妬がらみの不平不満を漏らしているが、僕はそれは批判の方向が逆だろうと言いたい。むしろ、文壇も大学も、小谷野敦のような「大学院卒の似非インテリ」ばかりになったところに、文壇や大学文学部の地盤沈下の原因があるのであって、その逆ではない。文学部の学生に「研究者志望」より「作家志望」ばかりが増えて困ると言っているが、それは困るというより、いい傾向ではないか。小谷野は文壇と大学とを勘違いしている。文学部で何の研究が出来るというのかね。そもそも文学部なんて、作家や批評家の原稿整理か戸籍調べ(笑)程度のことしかしないし、出来ない場所だろう。東大大学院博士課程修了の「博士」である小谷野が、文学教授の資格や学歴にこだわるのは仕方ないかもしれないが、話が転倒していると言うべきだろう。渡部も、かつて「すばる」で、自分たちがやっていたチャート式だか○×式だかのキワドイ「文芸時評」のことを自慢たらしく持ち出して、それまでは文壇にも論争や批評が活発に展開されていたかのように言っているが、それも冗談だろう。渡部らの「文芸時評」こそが、一見、過激そうに見えながら、その中身は身内に優しい党派的、学歴主義的な文芸時評で、それ以後、文壇の批評は、「蓮実重彦東大学長」大先生を先頭にした学歴志向が強化された、という言うべきなのだ。蓮実をトップにした渡部や浅田彰らの俗物的「学歴主義者」たちが、文学や文壇を、世俗化させ、つまらない小市民社会にしてしまった犯人である。最近の文芸雑誌の批評欄等に、毒にも薬にもならない、つまらない「東大教授」かその予備軍、あるいはその落ちこぼれ(小谷野敦?)のような連中が異常繁殖し、大手を振って跋扈するようになったのも、元をたどれば、渡部直己等の権威主義的な「文芸時評」の俗物性にこそ原因があるのだ。さて、「月刊サイゾー」だが、これが、腰の据わった反権威主義的な編集方針に依拠しているらしく、なかなか面白い。以下に、僕の元原稿を引用しておくが、雑誌掲載の方は、字数制限があって、もっと短くカットされている。いやー、それにしても小谷野敦の顔写真は素晴らしいね。渡部と並んで写っているが、渡部の小市民的貧弱さと対照的に、小谷野の顔はいかにも近代文学的な下品さと豊饒性に満ち溢れている。小谷野の書くものはたいしたことはないが、顔は田山花袋を遥かに越えている。その薄汚い怪しさには、スゴイ迫力がある。この顔なら、きっと文壇を活性化してくれることだろう、と思う今日この頃であった。(笑)。


■追記