文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「純文学」から「ライトノベル」へ

ランキング(政治)に参加中!!!にほんブログ村 政治ブログへ


 文学の衰退や文壇の地盤沈下などが言われるようになって久しいが、そういう発言の前提として、これまでは、必ず、「若者の文字離れ」、あるいは「読書習慣の衰退」を指摘するのが通例だった。いわゆる、「映像やゲーム、あるいは漫画に熱中する近頃の若者は本を読まなくなった」、そして当然の結果として「本や雑誌が売れなくなった」、そしてさらにそこから「文学の衰退や文壇の地盤沈下が始まった」と言うの類の分かりやすい社会分析である。私はかねがね、こういう分かりやすくて、うまく出来すぎた話は信用しないことにしているので、この「活字離れ」とか「読書習慣の衰退」とかいう話も疑問に思っていた。もし、近頃の若者が本を読まなくなったとすれば、昔だってたいして変わりはないのであって、昔の若者だってそれほど本を読んでいたわけではない。たとえば、多くの若者たちがヘーゲルマルクスを一行も読まずにマルクス主義や哲学を饒舌に語っていたのである。ましてや、文芸誌や論壇誌を、昔の若者たちが毎月毎月読んでいたはずがない。もしそういう種類の読書好きの若者がいたら、私は軽蔑こそすれ、とても尊敬する気持ちにはなれなかっただろう。「文芸誌や論壇誌を熱心に読む若者たち」なんてのは、要するに深く考えるというよりは、流行や時局に流れやすい軽薄なタイプの若者であって、決して無批判に歓迎し賞賛すべきタイプではない。もっと先に読むべき本や、しなければならない事があるだろう、というわけだ。たとえば優れた新人作家は、文芸誌を毎月毎月熟読した結果として生まれて来るものではない。というわけで、文学の衰退や文壇の地盤沈下の根本原因は、若者の「活字離れ」などではなく、もっと別のところにあるだろうと私は思っていた。最近、出版された東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』を読むことで、その一端が理解できたように思う。東は、「オタク」「ライトノベル」「ポストモダン」という言葉を使って、現代の日本社会が直面している「文化革命」的、「文学革命」的社会現象を分析している。東によれば、ポストモダン化を典型的に象徴するのは「オタク化」であり、それを文学と言うフィールドに換言すれば、それは「ライトノベル化」である。私も、つい最近気付いたことなのだが、最近の若者たちは、読書嫌いでも活字嫌いでも何でもなく、ただ最近の小説や批評がつまらないから読まないだけで、実はその一方で、ライトノベルとかいう新しいジャンルの小説類は読みまくっているという事実がある。現に本屋を覗くと、大人たちの読む本とは別に、「電撃文庫」とか「富士見ファンタジア文庫」、「角川スニーカー文庫」などが、本屋の書棚に所狭しと並んでいるではないか。ライトノベルに続いて最近は、「ケータイ小説」なるものの存在も無視し得なくなりつつあるらしい。小説の売上げランキングを見ると、ケータイ小説の類が上位を独占している。つまり今や、本屋の書棚はライトノベル系やケータイ小説で占領されようとしているのである。換言すれば、現代の若者たちは、活字離れどころか、むしろ活字に飢えているのであり、その飢え満たしているのがライトノベルケータイ小説の類だというわけである。これは何を意味しているのか。
大きな物語の衰退とキャラクターのデータヘ゛ース化。
  東浩紀は、こう言っている.≪「ポストモダン化」は、1970年代以降の先進諸国で生じた社会的変化を意味し、「オタク」とは、同時期の日本で成長した、マンガやアニメ、ゲームなどを中核とした趣味の共同体を意味している。(中略)ポストモダン化の進展とオタクの出現は、時期的にも特徴的にも関係している。したがって、オタクについてポストモダンの概念を使って、また逆にポストモダンについてオタクの経験を参照して考えることには意味がある。そして、その視点からは、いままでの日本社会論ではなかなか勝たれなかった、戦後日本のある側面が見えてくる。(中略)このような立場のもとでオタクの歩みにむ注目し、1995年以降、若いオタクが急速に物語に関心を失っているように見えること(「萌え」「データベース消費」の台頭)、そしてその変化が、短期的な流行ではなく、むしろポストモダンの徹底化、すなわち「大きな物語の衰退」の反映として分析できることを指摘した。≫東浩紀がここで言っているポストモダン化による「大きな物語の衰退」という問題は、決してオタク特有の問題ではなく、現代文学や現代小説、あるいは現代思想が直面している問題でもある。東浩紀の功績は、この問題を、ライトノベルの問題にまで拡張したことにある。そしてライトノベルの本質について、こう言う。≪ライトノベルの本質は、物語にではなく、キャラクターのデータベースというメタ物語的な環境にある。ライトノベルの作者や読者は、物語を構築する、あるいは読解するために、作家のオリジナリティや物語のリアリティにではなく、メタ物語的なデータベースへの参照に頼り始めている。そしてその感覚は、この二十年近く成長を続け、いまでは例外的なものとして片づけるにはあまりに大きくなっている。≫これは、ストーリーとしての物語の全体性よりも、物語の構成要素である細部の部品的な小道具に、つまり細部の部品のデータヘ゛ースが重視されるようになっているということである。つまり、誤解を恐れずに言えば、ストーリーより細部の部品が異常に肥大化し、且つ重視されるのがライトノベルの本質だというわけである。いわゆる「萌え」現象が、これである。同じような議論を、東は、「新潮」六月号の「工学化する都市・生・文化」でも、仲俣暁生を相手に、展開している。「電撃文庫」とか「富士見ファンタジア文庫」、「角川スニーカー文庫」など、手に取るのも躊躇するほどにいかがわしい感じがする。私も、これまでは無意識の内にその手のものを避けてきた。しかし、文学や小説というものは、元来、いかがわしいものである。言い換えれば、その「いかかわしさ」を失って、インテリ向けの高級な趣味・娯楽に成り上がったところに、現代小説の衰退がある、と言う文学論、小説論も可能であろう。東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』は、そういうライトノベル的なものへの偏見が間違っている事、いや単なる間違いではなく、現代社会の深層構造や現代の若者たちの深層心理に対する根本的な無理解を意味している事を明らかにしている。いずれにしろ、現代の若者たちが夢中で「小説のようなもの」を読んでいるらしいという現実は無視できない。そこには、東浩紀が指摘するように、現代社会の構造の変化や精神構造の変化が対応している。少なくとも、純文学に象徴される現代小説が、その変化を描くことに成功していないということは確かである。むろん、文壇や文芸誌も、そういう時代の趨勢を無視し、一方的に黙殺しているわけではない。むしろ逆である。たとえば文芸誌で活躍する舞城王太郎佐藤友哉西尾維新等はライトノベルの出身か、そういう傾向の作家らしい。では、そういう風にライトノベル系の作家を、次から次へ文芸誌に導入し、吸収していけば、それで文壇や文芸誌が活性化するだろうか。言うまでもなく、それはあまりにも幼稚な、安易過ぎる対応策である。「オタク」や「マンガ」を売り物にして、文壇で、「売れない純文学は終わった」というような「売上げ文学論」を展開した大塚某に、笙野頼子や私が反対するのはそこに理由がある。ちなみに、東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』も、批評的というよりは、「純文学からライトノベルへ」、あるいは「大きな物語から小さな物語へ」というような二元論的な図式に還元できるような安直な社会現象論に留まっている。そこに使われているキイワード、たとえば「ポストモダン」、「大きな物語の衰退」…などは、文壇や文芸誌ではすでに使い古された概念であって、新鮮さはセ゛ロである。東浩紀の新しさは、オタクとライトノヘ゛ルとポストモダンを結びつけたところにだけある。
■「いかがわしさ」こそ文学の命である。
 文学における「いかかずわしさ」という問題に関連させて言えば、椎根和の新刊『平凡ハ゜ンチの三島由紀夫』(新潮社)が実に象徴的である。三島由紀夫と言えば、今や戦後日本を代表する「大作家」「大思想家」としての評価を不動のものにしつつあるが、しかし三島由紀夫の文学的本質は、そういう高級な政治思想的なものにのみあるのではない。ボデービルや剣道やボーリングに熱狂し、常にスキャンダラスな話題を提供しつづけた三島由紀夫…。その三島由紀夫を、常に揶揄し嘲笑する記事を書きつづけた「平凡ハ゜ンチ」的な「いかがわしさ」を拒絶するどころか、逆に共有し、むしろその「いかがわしさ」を愛し続けた三島由紀夫…の中にこそある。三島の死後、文学も文壇も衰退しつづけているわけだが、その原因の一端は、文壇や文芸誌がまぎれもなく三島由紀夫的な「いかがわしさ」を失ったところにあると言わなければならない。要するに三島由紀夫なら、ライトノベルケータイ小説のような「いかがわしさ」にも積極的に介入し、荷担していたかもしれない。さて、今年から、「大江健三郎賞」なるものが創設され、その第一回目の受賞者が発表されている。この文学賞の選考は、文学賞に名前の冠された当人である大江健三郎自身が一人で決定するものらしく、今回の受賞者には、長島有が選ばれ、選評を大江健三郎自身が書いている。いかにも大江健三郎らしい、意表を突いた決定であると思う。ここで面白いのは、大江健三郎が選考に一年以上の歳月を費やし、若い作家たちの作品を丹念に収集し、緻密に読みつづけたらしいことである。今、現役の作家で、これだけの情熱をもって若い作家たちの新作を読みつづけている作家が何人いるだろうか。おそらく一人もいまい。一方で、大江健三郎は、「新潮」に自分自身が巻き込まれたスキャンタ゛ルを追求する「作家生活50周年記念小説」の連載も開始している。大江健三郎と言えば、沖縄の集団自殺に「軍命令」があったかなかったかが裁判にまでなっている『沖縄ノート』問題もある。今や、文学的「いかがわしさ」を保持し続けている作家は大江健三郎だけではないのか。今月は、「群像」と「文学界」に、新人賞の受賞作が発表されているが、私のみるところでは、「大江健三郎賞」以上のインパクトはない。その理由を端的に言えば、それは選者たちが、作家志望者たちの作品を、大江健三郎ほどの時間と情熱をもって読んではいない、と思われるからだ。たとえば、「文学界」新人賞の受賞者の経歴には「東大大学院博士課程修了」とか「京大大学院修了」とかある。また「群像」の評論部門の優秀作には、ハイデガーヘーゲルバフチン等の名前が飛び交っている。いずれにしろ、「いかがわしさ」からは遥かに遠い。こんなものは文学ではないだろう、と私は思う。選者たちの文学的センスを疑う。いずれにしろ、浅田彰島田雅彦というような「万年新人賞選考委員」のような安全パイばかりが並んでいる「新人賞選考」には文学的出会いの可能性がはじめから欠如しているように感じられる。それにしても、浅田や島田は、いつまでこの手の「文学新人賞選考委員稼業」を続けるつもりだろうか。早くこういう「駄賃稼ぎ」のような、安易な、いい加減な場所から消えて、本来の仕事であるはずの小説執筆や、学問研究に熱中して、その世界で仕事で勝負して欲しいものである。浅田や島田には「いかがわしさ」が欠如している。

ランキング(政治)に参加中!!!にほんブログ村 政治ブログへ