文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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小谷野敦の「なんとなく、リベラル」(「文学界」)を読む。


■無能な大学教授や女性研究者が、何故、蔓延るのか。
車谷長吉が「文学の基本」(「新潮」2月号)というエッセイで、まさしく文学の基本問題について、例によって過激なことを書いている。とは言っても、これは慶応大学での講義録(「詩学」)のまとめを再録したもののようだが、そこで車谷長吉が本質的な議論を展開しているが、中でも、文学の世界に、「頭の悪い人」や「頭のいい人」や「頭の強い人」…がいるという議論には感服した。車谷長吉は、「頭の強い人」が一番文学に向いていると言いながら、「頭のいい人」の部類に入る作家たちを、たとえば大学教授とか大学助教授という社会的な身分を確保しつつ小説や批評を要領よく書いて、文壇を闊歩しているような軽薄な作家や批評家たちを、「傷つくことを恐れる」小心者たちだ、とこき下ろしている。文学者は、そうであってはならないだろう、と。むろん、私は車谷長吉の主張に全面的に賛成する。と同時に、車谷長吉の発言に衝撃力と説得力とがあるのは、やはり車谷長吉が、『塩壺の匙』でデビューして人気作家になるまで、一種の社会からの脱落者としての長い長い放浪体験を持っているからだろう、と思う。単なる思いつきや妬み僻みからの発言ではないスゴミがある。むろん、単に、長く貧しい修業時代を経ているからいいと言うわけではない。今、こういう意見を、弱者や敗者の劣等感からではなく、まったく堂々たる文学的な正論として主張できる作家は車谷長吉ぐらいしかいないだろう。
さて、私は、今の文壇や文学界、あるいは文芸ジャーナリズムを阻害している最大の病根は、この「頭のいい人」たちの存在だと思うが、それを、車谷長吉のように堂々と真正面から、文学論のテーマとして提出し、具体的に批判する人は意外に少ない。むしろそういう「頭のいい人」たちに迎合し、追従する作家や批評家、編集者たちばかりだと言っていい。文学が地盤沈下するのも当然だろう。
というわけで、今月の文芸誌では、大学社会に巣食う「女性文学研究者」たちの生態をコミカルに描いた小谷野敦の「なんとなく、リベラル」(「文学界」)が出色であった。「東京大学」と思われる一流の有名大学で英文学を専攻している才色兼備の女子院生が、助手に選ばれるのだが、それを、助手に選ばれたのは、自分が「美人」だったからではないだろうか、と自問自答しつつ、不安感に襲われところから始まるこの小説は、文壇を舞台にしているわけではないが、一種の現代文学批判として読むことが出来る、と思う。単に「頭がいい」というだけで、一流大学に入学し、そのまま大学院へ進学、やがて大学業界に生活の場所を確保し、文学を飯の種にして生き続けていく……。
谷長吉なら、そこに文学があるのか、あるわけないだろう、と厳しい突っ込みを入れるところだろう。むろん、小谷野はそんなストレートな突っ込みはしないが、かなり辛辣に、この種の「学問研究者」たちの生態を描いているわけだが、現代日本文学の大きな阻害要因となっている大学教授や助教授、あるいはその予備軍たちの生態を描いているとい意味で、この小説はかなりの問題作と言っていい。現代文学にとってもっとも根本的な問題を、もっとも重要な人物たちの生態を暴き出すことによって抽出しているからだ。
小谷野敦の「なんとなく、リベラル」が面白い。
 ≪私が助手になったのは、何も美人だからじゃない、と岡村朋は思った。それは、大学の小高いところにある生協の書籍部へ寄った帰り道に、ふと頭に浮かんだことで、誰かにそう言われたとか、そういう噂を耳にしたとかいうことではなかった。たまたま手にした菰田崇が、「まあ、美人の院生は教授に可愛がられたりしますからねえ(笑)」などと無責任なことを言っているのをふと目にしてしまったからだ。(中略)あれは自分への当てこすりではないかと気づいたのだ。いや、正確には、見た瞬間にそう思って、けれど意識の表面に浮かび上がることを抑えつけていたと言うべきだろう。(中略)≫
 これが小谷野敦の小説の冒頭だが、この主人公の助手が、「意識の表面に浮かび上がることを抑えつけていた」ものは重要だろう。この主人公は、常に自分自身に何か後ろめたいものを感じているが、それを象徴するのがこの冒頭の一節だろう。言い換えれば、作者の小谷野敦は、ここで、その押し隠しておきたいものや、後ろめたく感じているものを暴き出そうとしているのである。むろん、そこにこの小説の批評性と面白さがある。
たとえば、この女性は、その生い立ちから見ても、きわめて「ブルジョワ的、中産階級的」な古い伝統的な性意識や人間観の持ち主で、ある意味では、文学研究者としてはコンプレックスを感じているのではないかと思わせるような人物である。授業でポルノグラフィーを見た時の場面。
≪何より不快だったのはセックスしている男女の、澱んだ、薄汚い表情だった。朋はおかげて、その授業を早退してしまった。ああいうものが、庶民文化だからといって擁護されるなんて、筋違いだと思う。けれどそれは軽々しく口にはできない。ブルジョワ的、中産階級的な道徳を引きずっているねだけじゃないかと言われかねないからだ。しかもそれは、当たっているだけにつらい。朋は東京郊外で、会社役員の父と専業主婦の母の間に育った。自分が恵まれた育ちであることに、ときどき負い目を感じる。≫
要するにこの主人公の女性研究者は、文学研究を志しながら、きわめて健全な、常識的、つまり「ブルジョワ的、中産階級的」な古い伝統的な性意識や人間観の持ち主なのだ。別にそういう文学研究者がいても悪くはないだろうが、そういう研究者たちばかりが増えすぎて、それが文学研究の世界や、ひいては文壇の常識になるようでは困るだろう。この女性は、日本では男性経験もないままに、アメリカの大学に留学するが、アメリカ生まれの韓国人と付き合いはじめ、そこで、いわゆる性的初体験をして帰国する。帰国すると都内の某私立大学に就職。そのかたわら、それほどの思想的な自覚もないままに、現代を生きる若手研究者らしく左翼市民運動的なものにも積極的に参加し、いっぱしの進歩的で反権力的な学者を気取りつつ、政府や権力を批判する。そして在日韓国人の研究者と結婚する。
小説の終りの方にはこんな文章もある。
≪「今の人文・社会系の若い連中の論文読んでいるとね、なんか正義を振りかざしていて、あれ、結局出世の手段なんだよね。教授連が団塊の世代だからさ。」朋は、それは違う、T大ではそういう人事はされていない、と言ったが、菰田は「そりゃ濃淡はあるよ。T大だって社会学はフェミやリベラル派が多いだろう。英文学だって、首都圏の有名大学の若手なんて、それ系の、しかも女がばらばらいる。単にT大ではとらないってだけでしょ」と軽くかわした。(中略)朋はその時、夫婦揃って東京の有名大学に勤めていて、関わっている雑誌もあることの幸せを思い、言いたい放題言ったわりには、不幸そうに立ち去った菰田の後姿を思い出して、(ざまあみろ)と思い、幸福な気分で、開いたドアに右足から入り、軽やかに都営線の電車に乗り込んだ。≫
この「万年非常勤講師」で、言いたい放題言いながら、さびしく消えていった菰田は、小谷野敦自身がモデルかもしれない(笑)。とすれば、この俗物そのものの「女性英文学者」にもモデルがいるのだろうか。むろん、小谷野は、この女性研究者を肯定的に描いているわけではない。しかし、この女性英文学者という「まがいもの」を小説の主人公に設定し、その内面までも緻密に抉り出したという功績は小さくない。
この小説は、タイトルからもわかるように、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』のパロディであり、その現代版を目指している。田中康夫の『なんとなく、クリスタル』にあった多くの脚注もしっかりと模倣し反復されている。ただ、違うところは、主人公が、モデルをしている「馬鹿な女子大生」から、「頭のいい女性英文学者」に交代していることだけだ。言い換えれば、おそらく小谷野は、「頭のいい女性英文学者」という存在こそ、現代の病根を象徴していると言いたいのだろう。






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