文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

今月の文芸誌から…菅聡子について。


今月の文芸誌で、車谷長吉のエッセイや小谷野敦の小説を読みながら、文壇や論壇に巣食う「大学教授」や「女性学者」という病根やタブーについて考えてみたのだが、ここにその見本のようなものがあるので、紹介しておこう。お茶ノ水女子大学教授・菅聡子の「女性たちのtransferring/transforming--韓国近現代女性史紀行--」(「すばる」)という韓国旅行記である。私は、菅聡子という女性研究者についてその業績も経歴も知らないが、「すばる」に堂々と登場するのだから、それなりの学問的な実績のある「学者」なのだろう。これは、日本の女性史研究の女性学者たちが、韓国の女子大学教授たちの提案を受けて、韓国を訪問し、各地の史跡等を訪問し、研究調査し、討論していく旅行記である。さて、菅聡子は、この旅行記の冒頭で、日本における、いわゆる「冬ソナ」現象や「韓流」ブームとそれへの批判・罵倒について書いている。むろん、菅聡子は、「冬ソナ」現象や「韓流」ブームへの批判・罵倒に対して批判的な立場から書いている。たとえば、こう書いている。
≪日本女性の前に、<韓国>が具体的な顔をもって立ち現れたそのきっかけが、かの『冬のソナタ』であったことには異論の余地はあるまい。ソウル・オリンピックよりもFIFAワールドカップ日韓共催よりも、ひとつのセンチメンタルな<物語>の方が、女性たちの、とくにミドル・エイジ以上の女性たちの心を動かす力を持っていたわけだ。/かねがね思っていたのだが、女性たちの<冬ソナ>ブーム、<韓流>ブームをめぐるジャーナリズムの言説は、必要以上に悪意に満ちている。というのが言い過ぎなら、あまりに揶揄や冷笑に満ちている。日本の女性たちが海外のスターに熱狂するのは、全く珍しいことではない。しかし、若い女性たちがベッカムさまやらレオさま、ブラビさまに熱狂することと、ミドルエイジの女性たちがヨンさまに熱狂することと、両者に対する世間の視線には、明らかに大きな差がある。もちろん、この固有名詞の羅列から、その対象が<欧米>か元<植民地>かに分かれていることを強調すれば、この言説の意識下に、明治近代以来の帝国の欲望の亡霊を見ることはたやすい。/しかし、ここで見えてくるのはジェンダーイデオロギーだ。概して、現代日本社会は<若さ>や<未熟>であることに対して寛容だが、その分、年齢を重ねた人間への目線は厳しい。…(以下略)≫
 私は、菅聡子がここに書こうとしていることに反対ではない。別に異論はない。しかし、何か釈然としないものを感じる。それは、ここに書かれていることは、あるいは書こうとしているものは、すべて「借り物」じゃないのか、習い覚えたばかりの「知識」であり、「情報」にすぎないのではないか、という疑いである。正直な感想を言わせてもらうならば、私は、こういう真面目な女性研究者たちの素朴な旅行体験記を、天下の文芸誌がなんのためらいもなく堂々と掲載するところに、文芸雑誌の荒廃、文学の地盤沈下、文壇の崩壊の一つの原因があると思う。言い換えれば、車谷長吉小谷野敦的な、つまり文学批判的な「まなざし」が、まったくなく、且つそういう「まなざし」の存在すら無視されているということである。たとえば、こんに文章もある。
≪それは<移動transferring>である。彼女たちは、さまざまなレベルにおいて<動いた>のである。行動範囲や心的規範の狭拡強弱は個人によってさまざまだろう。彼女たちはそれぞれがそれぞれに、みずから定めていた(あるいは課せられていた)個人的な境界を<越えた>のである。そして、移動は変容をもたらす。≫
≪春川(山崎注ー「冬ソナ」の舞台となった町…)は基地の町である。朝鮮戦争をきっかけに派遣された米軍は、その後も韓国に派兵され続け、現在も在韓米軍として韓国各地に駐留している。春川駅の後方に米空軍の基地がある。しかし、『冬のソナタ』が美しい湖を映し出しても、隣接する米軍ヘリコプター基地がフレームに入ることはない。沖縄を舞台とした某人気ドラマを思い出させる。そこにあるのは青い海、独特の音楽、あたたかい人の心、しかし米軍基地は存在しない。≫
私はこれらの文章にも内容的には異論はない。しかし、私は、ここに菅聡子という人間の声を、その片鱗さえもを聞くことが出来ない。よく出来た作文以上でも以下でもない。「なんとなく、文学的」で、「なんとなく、リベラル」で…。車谷長吉が言う、傷つくことを恐れている「頭のいい人」が、左右に目配りしつつ、ちまちまと書き上げた優等生の作文であることに間違いはないだろう。むろん、私は、菅聡子という「女性研究者」を批判するつもりなどさらさらない。「女性文学研究者」なら、これで充分なのだろう。しかし、おそらくこのような文章が文芸誌に堂々と流通する背景には、「女性学者」「女性研究者」、あるいは「女性教員」というタブーが隠されている。車谷長吉小谷野敦が問題にしているのは、その問題だろう。つまり、現代の「教育現場の荒廃」という現象の根本原因の一つは、教育現場が過剰に「女性社会化」したことある、という現実を多くの人が知りつつも、それを公言出来ないというところにある。論壇や新聞・テレビのジャーナリズムが出来ないことを、文芸誌がやるという伝統を踏まえるならば、小谷野敦の小説の存在意義は充分にあると言うほかはない。平凡・凡庸な研究者や学者たちの論文やエッセイや小説を無批判に有難がり、そのまま掲載していく結果として、当然のことだが「文芸誌の紀要化」が起きているという指摘はかなり前からあるが、それがいよいよ顕著になりつつあるというのが現状だろう。その結果、読者が興味をなくすのは当然だろう。そしてその「読者離れ」の反動として、今度は人気回復をもくろんで、大衆化・通俗化・低年齢化を目指すという悪循環に落ち込んでいるのが、最近の文芸誌である。私は、最近の文芸誌がまったく駄目だとは思っていないが、つまり明らかに一部の硬直化した論壇誌総合雑誌などよりははるかに柔軟で本質的な表現や議論を展開していると思うが、それでもやはり文芸誌の文学的活力は衰弱していると思う。その一例が、ここにあるということだ。







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