文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

から宮沢賢治へ。


 宮沢賢治という名前はかなり小さい頃から、たとえば「雨ニモ負ケズ…」とか「風の又三郎」というような言葉とともに聞いているような気がするのだが、私は宮沢賢治という存在があまり好きになれなかったように思う。何故だかわからない。小学生時代には詩や童話だけではなく、宮沢賢治原作の映画作品等も見たように記憶しているが、それでも好きになれなかった。何故だろう。宮沢賢治を避けるような気分は大人になってからも続いている。「宮沢賢治ブーム」なるものがあったことも、そして多くの研究者達が宮沢賢治研究に夢中になっていることも、またそのブームが現在まで続いてることも知っているが、そういう話を聞けば聞くほど宮沢賢治を避けたい気分になる。かつて全ての作品を隅から隅まで熟読し、文学的にも思想的にも深い影響を受けている吉本隆明が、早い時期から宮沢賢治を論じているのを知り、その宮沢賢治論を読んだ時も、同じだった。吉本隆明が、宮沢賢治を真剣に論じる意図と動機が理解できなかった。どうしてだろう。私が南国に生まれなので、東北生まれの宮沢賢治が好きになれないのだろうか。どうもそうでもないらしい。たとえば石川啄木太宰治に対する感情は、宮沢賢治に対する感情と同じではない。石川啄木太宰治に対しては、好き嫌いはあるが、かなり強い関心を持っている。特に石川啄木は、私にとっては、一番早く知った文学者である。私の文学生活は、実は石川啄木の短歌を読む事から始まったと言っても過言ではない。私は、小さい頃は読書嫌いで文学にあまり関心が無かったが、はじめて文学のようなものを了解でき、文学的感動を体験したのは石川啄木の短歌だった。中学一年の時だった。ちなみに石川啄木は、宮沢賢治と同じく、岩手県の人で、盛岡中学である。

 ところが、不思議なことに、文学者の記念館なるものにほとんど行った事のない私だが、その個人の「文学記念館」で訪ねたことがあるのは、ただ一つ、花巻の宮沢賢治記念館だけである。むろん、自分の意思で訪ねていったわけではなく、他人に連れられて行っただけであるが、それでも不思議な縁であると私は勝手に解釈している。

 要するに、それほど無関心で、自分には縁の無い文学者だと思っていた宮沢賢治について、私が興味を持ち始めたのはつい最近のことである。ドストエフスキー研究家として知られる日大芸術学部教授・清水正の影響である。私はほぼ清水正とは同世代だが、清水のドストエフスキー研究には早くから関心を持っていた。私もドストエフスキー研究家になりたいと思っていた時期があるからだ。清水は、学生時代からドストエフスキー一筋の人であり、今までに刊行したドストエフスキー関係の著作は膨大なものである。ところが、その清水が、ドストエフスキーだけではなく、宮沢賢治に関する著作もたくさん刊行していることを、最近、知った。これは意外だった。ドストエフスキーが、何処で、どういう具合に、宮沢賢治につながっていくのだろうか。宮沢賢治という人も、元々、ドストエフスキー的な人物だったのだろうか。ところで、ドストエフスキーが好きな人で、宮沢賢治にまで手を伸ばす人は清水を除いて皆無だろう。ドストエフスキー狂いの文学者として知られる小林秀雄埴谷雄高も秋山駿も、宮沢賢治とはほぼ無縁なはずである。何故、清水だけが宮沢賢治に関心を持ち、宮沢賢治を熱心に論じられるのか。そのモチーフは?

 というわけで、清水正宮沢賢治論について、私の素朴な宮沢賢治論を適当に織り交ぜながら、気軽な感想を書いていきたいと思う。

 清水が、「ドストエフスキーから宮沢賢治へ」と、つまりドストエフスキー研究者やドストエフスキー論者が誰一人として関心を示さなかった世界へ手を伸ばす切っ掛けを作ったのは「息子の死」だったようだ。『ドストエフスキー宮沢賢治』の中で、こう書いている。

罪と罰』論を書き終え、わたしは次の『白痴』論にとりかかった。が、途中で息子が病に倒れ、わたしは半年間いつさいペンをとらなかった。風邪で長いこと熱の下がらなかった息子は急性骨髄性白血病と診断された。長男の名前は新人と書いてアラトと読む。『罪と罰』のエピローグに出てくる<新人>からとつた名前で<神の国の人>の意味である。しかし、わたしはその名前をつけたときはそのように解釈していなかった。血で汚れたこの地上の世界を浄化し、更新する使命を持つた者、すなわち世界が週末を迎えた時に何人か生き残った者として把握していた。わたしは病室で息子に「名前を変えようか」と言った。息子は無邪気な笑顔で何もかも見透かしたような眼差しわたしに向けて「今の名前がいい」と言った。母親が死んだとき、わたしはすべてが許されるような気持ちになった。どんな人間も一度は死ななければならないのだ。どんな人間だって悲しい、淋しい。が、新人のときで違った。悲しみは憤怒となつた。

 これが、おそらく、我武者羅に「ドストエフスキー一筋」で生きて来た清水正の文学的、思想的な転機となった「事件」だろう。清水は、この「息子の死」というあまりにも辛い事件を転機に「ドストエフスキーからトルストイへ」、あるいは「ドストエフスキーから宮沢賢治へ」という新しい世界へ旅立つことになったように思われる。そこで問題になったテーマは、「愛する者を失った者はどう生きていけばいいのか」だったろう。清水も、母親の死はともかくとして、「愛する者を失う」という悲劇は、始めて体験することだった。
その悲しみから立ち直るために、そこで、清水は、ドストエフスキーではなく、まずトルストイの『アンナ・カレーニナ』を読み始める。

アンナ・カレーニナ』論はわたしがはじめて書いたトルストイの作品論である。30 代前半までわたしはどうしてもトルストイが読めなかった。ある時、トルストイを読もうと思った

 ドストエフスキーの世界に浸り、トルストイが読もうとしても読めなかった清水が、突然、トルストイを読もうと思い立ったのは、言うまでも無く、息子の死が原因だったろう。ドストエフスキーを読んでいるかぎり、死んだ息子は甦れない、息子は復活できない、そう清水は考えていただろう。だから、次のように書く。

『復活』はその題名に思うところがあり、一番最後に読むことに決めていた。この作品は場面によっては力強いリアリティを無条件に感じたが、<復活>という点に関しては余り説得力を感じなかった。

  そして、清水は、宮沢賢治に行き着くのだ。むろん、清水を宮沢賢治へと導いたのも「息子の死」であつた。

それにしても愛する母親アンナを失った息子セリョージャの悲しみをどうしたらよかろう。わたしがむ家に帰ると、妻が「唇から血が流れている」と言った。わたしは無意識のうちに唇を噛んで歩いていたのだ。わたしが初めて読んだ宮沢賢治の童話が『銀河鉄道の夜』であった。カムパネルラを失ったジョバンニの慟哭が息子を失ったわたしの慟哭に重なった




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