文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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「山崎行太郎講演会」(「大和正論の会」主催)のお知らせ。


■「山崎行太郎講演会」のお知らせ。



■日時 11/26(日曜日)、午後1時30分…


■テーマ 「司馬史観戦後民主主義的な自虐史観であった!
ーーーーノモンハン事件を中心にーーーー」


■講師 山崎行太郎(文芸評論家、埼玉大学講師)


■場所 神奈川県大和市


■主催 「大和正論の会


■参考資料.。

山崎行太郎(月刊雑誌「自由」掲載)
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司馬史観こそ自虐史観である。
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 ■反日的な国民作家・司馬遼太郎

 先日、我が国の「凡愚の宰相」は、所信表明演説で、国民からの「俗受け」をねらってか、今や、「昭和史・自虐史観派」の元凶とも言うべき通俗的国民作家・司馬遼太郎の言葉を引用したのだそうである。「凡愚の宰相」とその取り巻きが、いかに本を読まず、思想や学問に疎いかを象徴する「珍事」であった。

  司馬遼太郎といえば、たいへん甘い、「通俗的」な歴史小説、『竜馬がいく』や『坂の上の雲』で、国民的な人気を得た作家だが、かねがね、そのあまりにもうまく出来すぎた話を聞いたり読んだりするたびに、小生は、この作家の話には、「いかがわしい…」ものがあると思ってきた。晩年は、小説執筆をやめて、もっぱら雑誌のコラムやテレビのトーク番組に出演し、日本を代表する「大知識人」のような態度で、天下国家をおもしろおかしく語っていたように記憶しているが、小生はその種の話も、あまりまじめには聞かなかった。そもそも、歴史的事件や歴史上の人物を基準にして、現代という時代の事件や人物を批判・批評するという姿勢が、小生は嫌いである。

 しかし、司馬のような歴史小説家という人種は、いつのまにかその前提を忘れ、自分が歴史を超越した「歴史的英雄」であるかのように錯覚するらしい。司馬の「うさんくささ」の原因はそこにあった。最近、その司馬遼太郎的「うさんくささ」を受け継いでいるのが城山三郎であろうか…。

 ■少年漫画以下のシロモノでは?

 「文藝春秋」の巻頭を飾り続けた司馬の『この国のかたち』という長期連載コラムも、かなり胡散臭いものであった。自分の国のことを、「この国の…」と呼ぶ言語感覚には畏れ入るが、この言葉が象徴するように、司馬は、「昭和史」や「昭和に生きた日本人」を、冷笑的に見てきた作家である。それに対して、司馬が理想化した日本は、明治維新から日清・日露にいたる近代戦争に勝ち続けた日本であった。つまり、司馬にとっては、成功した歴史だけが語るに足る歴史なのであった。いかにも、通俗的大衆作家らしい通俗史観と言わなければなるまい。こういう通俗的な史観の持ち主が、とんでもない過ちを犯すのは当然であろう。司馬は、昭和史の大事件の一つである「ノモンハン事件」を小説に書こうとして資料を集めるが、膨大な資料を集めた後で断念したと言う。なぜ、断念したのか。
昭和一四年に起こった「ノモンハン事件」(ソ連側から見た「ハルハ河戦争」)とは、日本陸軍が、ロシアの近代化された機械化部隊の前に、無謀な作戦を強行し、あっけなく大敗してしまった、と言われてきた事件(戦争)である。司馬は、その通説を鵜呑みにして、「これは小説にならない…」と判断したのだ。しかも、司馬は、この事件を、日本陸軍の愚劣さを象徴する事件であり、太平洋戦争という暴挙へと突き進む日本軍の無謀な戦争の原点であったと見なす。
 しかし、驚くなかれ。ソビエト崩壊後、ロシア側から公開された公文書・機密文書によると、ノモンハン事件は、必ずしも、日本の一方的な惨敗ではなく、むしろ互角以上の闘いだったということが明らかになった。いや、ソ連側の機密文書を正確に読むと、この事件・戦争におけるソ連側の損害(戦死者25,565人)は、日本側の損害(17、405人)を大きく上回っていた。実は、ソ連軍の大敗北だった…というのが真相に近いというわけだ。(くわしくは、鎌倉英也著『ノモンハン隠された「戦争」』NHK!出版、小田洋太郎・田端元著『ノモンハン事件の真相と戦果-ソ連撃破の記録』有朋書院…などを参照)
 つまり、司馬に、「これは小説にならない…」と思わせた資料とは、独ソ戦を控えて、「ノモンハン事件」の大敗北という事実を隠蔽したいスターリンが展開した国際的なデマ宣伝の陰謀と、満州における不拡大方針をとる日本軍参謀本部の事実誤認に基づく「誤報」だったということである。
 司馬は、なぜ、こんな誤報にもとづくいい加減な資料を鵜呑みにしたのか。それは、司馬の小説の作り方そのものに原因があった、と言わなければならない。司馬にとって、「負けた戦争」は、すべて書くに値しない「愚劣な軍隊」の「無残な戦争」にすぎない。つまり、結果論的に言えば、明らかに「負け戦」だった「大東亜・太平洋戦争」は、小説に書くに値しない愚劣な戦争であったはずだ…という独断と偏見である。
 それにしても、「負け戦は小説にならない…」という司馬の幼稚な文学的センスにはまったく、驚きあきれるほかはない。

 ■司馬遼太郎的「小説」の限界

 司馬は、多くの資料を集めると同時に、事件の現場にいた軍人たちにも取材したようであるが、司馬の「自虐的昭和史・史観」を覆すことはなかった。
 いずれにせよ、司馬には、歴史資料や生存者の発言や記憶を鵜呑みにして、その裏の裏を読む能力が欠如していたというほかはない。司馬の歴史小説が少年漫画以下のシロモノではないか、というのはそういう意味である。
 司馬の歴史観や人物論は、戦後民主主義的な価値観を前提に成り立っている。ロシアやアメリカの科学的な合理主義に対して日本の愚鈍な非合理主義という思考図式である。つまり、司馬史観とは、素朴な「技術合理主義史観」にほかならない。
 ところで、 丸谷才一によると(「ゴシップ日本語論」「文学界」9月号)、司馬は、小林秀雄に対しても批判的だったそうである。むろん、小林秀雄を批判することが悪いというわけではない。ただ、ここまでくれば、司馬遼太郎という作家が、どういう思想的立場の人間だったかは一目瞭然だろうというまでのことだ。司馬に言わせれば、小林秀雄三島由紀夫も、恐らく「狂人」にすぎなかったのだ。司馬の歴史小説の底の浅さは象徴している。


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