文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

井口時男の『暴力論』を読む。


最近、巷では、「イジメ」や「イジメ自殺」とうものが流行らしく、イシメられたと自称する中学生や、あるいはイジメ問題を苦にした校長が、流行に乗り遅れまいと、次から次へと自殺し、おまけに自殺志願者たちから文科大臣宛ての自殺予告の手紙も続々と届いているようだが、僕はそういう問題にそれほど関心はない。なぜ、テレビや新聞や政治家や文化人が大騒ぎするのか、その理由がわからない。というよりその騒ぎ方を僕は、かなり怪しいと思っているし、ほとんどがヤラセではないかと疑っている。イジメ問題ほど人畜無害の面白いネタはない、ということだろうか。


といより、僕が関心を持ち、疑問に思うのは、イジメやイジメ自殺そのものではなく、それらを根絶し、この世からイジメやイジメ自殺なるものをなくそうとするマスコミや父兄や世間の脳中に巣食う奇妙な妄想の方である。暴力こそが現実であり与件であるというのが僕の世界観であり人間観である。人間社会からイジメやイジメ自殺という暴力現象をなくそうとする妄想こそが狂気である。


ウォルター・ベンヤミンは、「暴力批判論」という有名な暴力論の中で、「暴力とは何か」について、深い哲学的な議論を展開している。ベンヤミンによると、暴力という現象は人間存在の根本にかかわる問題で、暴力をこの人間社会から根絶すればそれですむというような問題ではなく、むしろ人間社会そのものの根底に不可欠な条件として暴力があり、それはたとえば、「法の根源に暴力がある。」ということになる。


暴力やイジメをなくそうとすることも一種の暴力である。それは人間社会が秩序を維持し、組織を防衛しようとする暴力である。ベンヤミンは、これを「法維持的暴力」と呼ぶ。たとえば犯罪者を国家権力の名の下に、逮捕したり、死刑にしたりするのがこの種の暴力である。つまり、法・秩序・権力の根源に暴力があり、暴力を前提にして、法・秩序・権力は成立している。ただ、それは、しばしば権力によって巧妙に隠蔽・抑圧・偽装されていて、見えにくいだけである。


さて、ベンヤミンはこの「法維持的暴力」の他に、さらに根源的な暴力の存在を指摘している。それは、「法措定的暴力」である。古い法・秩序・権力を破壊・脱構築し、それに代る新しい法・秩序・権力を作り出すのは暴力である。具体的に例を挙げて言えば、それは革命である。「銃から革命は生まれる」のであり、「銃から法・秩序・権力は生まれる」のである。たとえばアメリカの軍事力とアメリカ主導の国際秩序に対して挑戦するキム・ジョンイルの暴力は「法措定的暴力」の一種であると言えよう。


われわれは、しばしば、「法維持的暴力」は善なる暴力とみなし擁護するが、「法措定的暴力」の方はまさしく暴力そのものとして、つまり悪の権化として批判し罵倒する。この判断に合理的あ根拠があるのだろうか。むろん根拠などない。「法維持的暴力」も「法措定的暴力」も、善悪で語れるものではない。それは「善悪の彼岸」(ニーチエ)にある。


さて、話は変わるが、昨日は、文芸評論家で東工大教授の井口時男の新著『暴力的な現在』をどう読むか…というテーマの座談会に出てきた。「文芸思潮」という雑誌が企画した座談会である。井口時男の新著『暴力的な現在』のテーマは、タイトルが示しているように、現代日本文学における暴力である。特に最近の若手作家達が好んで描いている暴力である。井口は、そこに現代日本文学の復活の可能性を見出そうとしている。


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