文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

山崎行太郎の「月刊・文芸時評」 (「月刊日本」8月号)


ドストエフスキーは「感性」である。

今月は、まず初めに、加賀乙彦亀山郁夫の対談「二つの『ドストエフスキー』の間に」(「すばる」8月号)を取り上げてみよう。二人とも最近、ドストエフスキーに関する書物を刊行したということで、それを記念しての対談ということらしい。

言うまでもなく、ドストエフスキーは日本人にとってもっとも重要な作家である。ドストエフスキーという作家と作品との対決なくして日本の近代文学はないと言っていいだろう。それほどに、ドストエフスキーの文学は、日本人に愛されており、また深い影響を日本人に与え続けている。古くは島崎藤村の『破戒』はドストエフスキーの『罪と罰』を下敷きにした一種のパロディ作品であると言われているし、日本の近代批評の確立者として知られる小林秀雄の代表作は、ドストエフスキーの評伝『ドストエフスキーの生活』であり、また作品論としても『ドストエフスキーの作品』がある。

また、ドストエフスキーの翻訳や研究にも、ロシア語からの全訳を完成した米川文夫や、『謎解き』シリーズでドストエフスキー作品の秘密を解明した江川卓等がいる。しかも、これらはまだほんの一部である。

要するに日本のドストエフスキー研究のレベルは異常に高いのだ。というわけで、ドストエフスキーを論じたり研究したりするにはかなりの困難が伴う。先人達の業績が、その前に立ち塞がっているからだ。言い換えれば、ドストエフスキーをどう読むかによって、その作家や批評家の文学的資質もまた、厳しく問われるということだ。

さて、『小説家が読むドストエフスキー』を刊行した加賀乙彦は、こう言っている。

この場面を(註―『罪と罰』で、ラスコーリニコフがソーニャに、聖書の「ラザロの復活」を読んでくれと頼む場面…)ドストエフスキーがあれほど力を入れて書いているのに、多くの研究家は重視していない。見過ごしているんです。特にひどいのは小林秀雄さんで、ソーニャとラスコーリニコフがあの場面で話した意味を探究もせずに、わけのわからないことを書いている。それが日本の文学者にはうれしいらしくて(笑)、みんな小林秀雄ドストエフスキー論はすごいと言う。私はそれは大変な間違いだと思います。小林秀雄は間違った。彼は聖書の一番大事な意味を知らないで通り過ぎてしまったために、ドストエフスキーの中核にあるものがわからなくなったんだと思う。

加賀は、小林秀雄が、ドストエフスキーの中の「キリスト教」という問題を無視し、黙殺し、結果的に一番大事な問題を見過ごしたと言って批判している。しかし、はたしてドストエフスキーにとってキリスト教という問題が一番大事な問題だったろうか。そもそも、小林秀雄は、自分には「キリスト教という問題」がわからないと正直に告白している。それならば、小林秀雄が理解できないと言った問題が、加賀乙彦には分かったと言えるのか。かなり疑問であると言わなければならない。

ドストエフスキーは中学生にも理解できる。

亀山郁夫も、加賀の発言を受けてこんなことを言っている。

『小説家が読むドストエフスキー』の中にも、江川卓さんの「謎とき」シリーズは、キリスト教がわかっていないという厳しい叱責の言葉がありました。おっしゃるとおり、宗教的なバックグラウンドを調べることに関して、江川さんは恐ろしい緻密さを発揮するんですが、その本質にある信仰や信念、アウラといったものに迫りきれないように思います。

亀山も加賀も、ともにキリスト教にこだわっているが、もしそれが正しいとすれば、日本人のほとんどがドストエフスキーを理解出来ていないし、これからも理解できないだろうと言うことになる。はたしてそんなことがありうるのか。

私は、この二人は大きな勘違いをしていると思う。それは、一言で言えば、キリスト教という理論体系を持ち出してきても、小林秀雄江川卓ドストエフスキー論を乗り越えることは出来ないということだ。言い換えれば、小林秀雄江川卓の偉大さは、キリスト教という理論やイデオロギーを抜きにして、ドストエフスキー文学にぶつかっていったというところにあるということだ。

柄谷行人も、中学生の時、ドストエフスキーを読んでよく理解できたと言っている。むろん、超人哲学やキリスト教を理解していないにも関わらずに……。なぜ、中学生にさえ、ドストエフスキー文学が理解できるのか。加賀や亀山にはそこがわかっていない。

加賀は、「でも加賀さんは、小説をお書きになりながら、ドストエフスキーを越えている、と思う瞬間があるわけでしょう。『宣告』には、たとえば、『罪と罰』も及ばない強烈な何かがあります。」という亀山の発見を受けて、こんなことも言っている。

私は、ドストエフスキーの弟子だという意識はすごくあります。ドストエフスキーを読まなかったら、小説家にはならなかったでしょう。(中略)ドストエフスキーに少し近づけたかなという気がありましたが、あくまでドストエフスキー先生に向けて、弟子が書いた論文なんです。

私には、この加賀の発言も、作家にあるまじき不注意な、無神経な、鈍感な発言のように見受けられる。少なくとも、ノーベル賞作家・大江健三郎はこういう不注意な発言はしないだろう。小説家としてもっと謙虚なはずである。

要するに、加賀乙彦は、ドストエフスキーを、キリスト教という理論やイデオロギー、あるいは殺人事件やテロ事件というような素材のレベルでしか読んでいないということだ。繰り返すが、日本人は、キリスト教を理解できないにもかかわらず、ドストエフスキー文学を深いところで、つまり感性のレベルで理解している。感性としてのドストエフスキーが理論としてのドストエフスキーより浅いとは言えないだろう。

ところで、話は変わるが、加賀乙彦ドストエフスキー論に感じた違和感を、私は、西尾幹二をめぐる、いわゆる「新しい歴史教科書をつくる会」騒動の中にも感じる。むろん、西尾幹二に対してではなく、西尾幹二を批判し罵倒する人達に対してである。そこにあるのは、小林秀雄ドストエフスキー論と加賀乙彦ドストエフスキー論の違いとして捉えることが出来るような問題である。

江藤淳は、「保守は理論でもイデオロギーでもなく感性である」と言ったことがあるが、私はここに批評や文学の真髄があり、原点があると思う。しかし、最近の保守は、かつての「左翼」のように「理論武装」し、「徒党」を組み、「イデオロギー集団化」しつつあるように見える。「つくる会」がその典型であろうか。

私は、繰り返すまでもなく、西尾幹二をめぐる「つくる会」騒動を、単なる一組織の内紛や派閥抗争としてではなく、一種の思想論争、あるいは文学論争の一齣として注目している。そこには、思想問題や文学問題が集約されている。

西尾幹二の「人間性」を批判し、罵倒する自称「保守派」の学者や思想家やジャーナリストたちは、西尾幹二の提起した思想問題を理解していない。それどころか、むしろそういう問題提起自体を、組織や運動を破壊する「反動的な悪徳分子」と見做して激しく嫌悪し、攻撃し、排除しようとしている。

「左翼に対抗するためには、みんな仲良く、大同団結しよう」とか、「内部抗争や論争を繰り返すような人達に教科書を語る資格はない」とかいうような左翼小児病的な素朴な思考が、新「つくる会」や、そこから追い出されて新集団を旗揚げしようとしている八木秀次新田均らのグループの周辺には蔓延している。世も末というしかない。そもそも論争や内部抗争のない論壇や文壇には存在価値はないだろう。

■目の離せない優秀な「論客」が文壇と論壇に登場してきた。

さて、この欄でも何回か取り上げた休職・裁判中の外交官・佐藤優の連載が「文学界」で始まっている。タイトルは「私のマルクス」。私は佐藤優についてそれほど深く知っているわけではないが、佐藤の論文や対談は、いずれも群を抜いて面白い。

なぜ、面白いのか。それは、おそらく、佐藤の思考が、政治や経済や外交について語りながらも、常に宗教的、哲学的、そしてある場合には文学的だからだろうと思う。つまり原理論的なのである。佐藤優の連載が、一見、場違いかと思われる「文学界」という文芸誌で始まるというのも偶然ではない。今、文芸誌に欠如しているのも、実は佐藤優的な原理論的な思考力だからだ。言い換えれば、文芸誌に登場する批評や小説の多くは、佐藤優の原理論的思考に遠く及ばないということだろう。たとえば、同じく「文学界」に連載中の「哲学者・中島義道」の連載コラム「観念的生活」も、佐藤の「私のマルクス」と並べると一種の雑文でしかない。

たとえば、佐藤優は、宇野弘蔵広松渉というマルクス主義学者の名前を出しながらマルクス主義の理論やその構造について語る。そして、一方では文学者のように個人的な体験にもこだわる。まるで私小説作家のように。マルクスと出会った状況についてはこう書いている。

それでは私がはじめてマルクスと出会った状況について記そう。一九七五年、四月に私は、埼玉県立浦和高等学校に入学した。その年の夏休み、七月から八月末まで、私はスイス、西ドイツ、チェコスロバキアポーランドハンガリールーマニアソ連を旅行した。ソ連ではモスクワだけでなく、ウズベキスタンタシケントプラハにも足を伸ばした。それも団体旅行ではなく、個人旅行でこれらの諸国を訪れた。ソ連・東欧に旅行したのに深い意味があったわけではない。また私の両親が社会主義国と関係した仕事をしていたわけでもない。

こうして佐藤は、まるで小説でも書くように、両親の経歴、マルクスとの出会い、マルクス資本論の哲学的意味、あるいは、その歴史的な意義などを、語っていく。特に宇野弘蔵への言及が面白い。

実は、同じ「文学界」で、柄谷行人マルクス経済学者・宇野弘蔵について語っているが、佐藤は、まるで柄谷のように、マルクス宇野弘蔵について語るのだ。

マルクス経済学を学んでもマルクス主義者になる必要はまったくない。資本主義システムの内在的論理と限界を知ることが必要なのだ。人間は、限界がどこにあるかわからない事物に取り組むときに恐れや不安を感じる。時代を見る眼から恐れと不安を除去するために二十一世紀初頭のこの時点で『資本論』を中心にマルクスの言説と本格的に取り組む意味があるのだ。

いずれにしろ、当分、目の離せない優秀な「論客」が文壇と論壇に登場してきたと言っていいだろう。




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