文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

次は、木村剛かな。木村剛の『日本資本主義の哲学』に「哲学」なし

(以下は、二月頃に某所に書いた文章の再録です。)


 ちょつと回り道をしたので、ここでふたたび、「マルクスケインズ」という本来のテーマに戻ることにしよう。そこで「マルクスケインズ」の問題へ立ち戻る手がかりとして、たまたま先日、「ライブドア堀江社長逮捕」のニュースが流れた日に、浦和の古書店の店頭で、たった100円だったので買った木村剛の『日本資本主義の哲学』という立派すぎるタイトルの「駄本」をとりあげることにしたい。


この本を買ったのは、わずか100円だったから買ったというだけで、別に必要があって買ったわけではないが、しかし考えてみると、「ホリエモン騒動」の「影の真犯人」(笑)の一人、あるいは今風に言い換えれば、「ライブドア三兄弟」の一人が木村剛である、と小生は睨んでいるから、絶好のタイミングでの買い物だったということになるかもしれない。


つまり、「マルクスケインズ」を引き合いに出しながら、小泉・竹中路線の経済学的無知と無策を批判することを主テーマとする本稿で、「小泉改革のスポークスマン」の一人としての木村剛を取り上げることは、必ずしもまとはずれではなかろうというわけなのだ。ちなみに私見によると、「ホリエモン騒動」の他の二人の真犯人は、言うまでもなく竹中平蔵世耕弘成である。


さて、竹中と世耕は、昨夏、衆院選挙に「反小泉」の急先鋒・亀井静香への「刺客」として突然、立候補したホリエモンの選挙応援演説で、わざわざ選挙区にまで乗り込んだ上に、竹中にいたっては、「郵政民営化と小さな政府作りは、小泉純一郎ホリエモン竹中平蔵が、スクラムを組んでやり遂げます…」(?)と、ホリエモンの手を取って叫んだぐらいだから、そのホリエモン六本木ヒルズ周辺に屯する「若手IT企業家」たちとの癒着振りは、今さら指摘するまでもなく明らかだが、木村剛の場合は、その関係があまり目立たないように思われる。


しかし、私は、テレビの経済番組等にしばしば登場して、「経済政策」や「金融政策」に精通しているかのような顔をして、小泉・竹中路線の経済改革を擁護し続けてきた木村剛の、「ホリエモン騒動」に象徴される小泉・竹中路線の日本的経済システムの解体と改革に対する「政治責任」は小さくないと思っている。


たとえば、竹中平蔵主導の不良債権処理の過程で、それに連動するかのように「30社リスト」なるものを作り、マスコミを通じて「倒産促進」を煽ったのは木村剛の役割が何であったかを象徴している。


では、木村の経済理論、ないしは経済思想なるものはどういうものなのか。すべてを知り尽くしたかのように能弁に語りまくる木村だが、はたして木村はマルクス経済学やケインズ経済学をどう読み、どう理解しているのか。


東大経済学部卒で、日銀出身が売り物の木村剛に、はたして語れるほどの、日本資本主義に関する「哲学」があるのか。結論を先に言ってしまえば、木村の『日本資本主義の哲学』は、実に幼稚な書物である。古本屋のオヤジの目に狂いはない。たしかに100円の値打ちしかない本である。と言うのは冗談だが、木村の経済理論と経済思想の本質は、中小企業のオツサンたち向けの「人生論」レベルである。語るべき経済理論や経済思想など何もない。すべては寄せ集めのパッチワーク経済学である。


この本は、エンロンワールドコムの破綻の話から始まる。エンロンワールドコムの破綻の原因は、木村的に言えば、「企業家のモラル」の問題であるらしい。米国資本主義にも「悪い奴」がたまにはいるというわけだ。当然だろうが、木村は、それを米国資本主義の根本的な欠陥や危機の問題とは認識していない。


さて、小泉・竹中路線を追認する木村の「構造改革」理論の眼目は、「金融解体」と「土建屋解体」である。そしてその解体論の思想的裏づけは、ルールとモラルである。何故、日本の金融システムを改革しなければならないのか。何故、不良債権を抱え込んだ土建業は倒産させなければならないのか。改革や解体の後日本経済はどうなるのか。というような問題に対する経済学的、哲学的解明はまつたくない。


木村が提示する理論は、企業家のモラルにすぎない。「まじめに頑張れば何でも出来る…」という一種の「根性論」である。つまり木村の構造改革とは、米国資本主義でもグローバルスタンダードでもなく、資本主義の公平なルールにしたがって、「不良企業は退場しろ」というだけである。


負債を抱えた倒産寸前の大企業を、政府や銀行がいつまでも保護し支援するところに現代日本資本主義の欠陥があり、そこから企業家のモラルハザードが起き、日本資本主義の健全な機能が麻痺するというわけだ。


木村の分析には、「倒産や解体の後の日本経済がどうなるか…」というような本質的な経済学的問題意識はない。たとえば、エンロンワールドコム問題に関する木村の総括は、こんなものである。「米国資本主義の凄さは、危機に際しての自浄作用にある。資本主義の暴走に対する制御装置が機動的に働くのだ。ところが、日本資本主義にこの作用は見られない。制御装置はないようにも見える。」


そして次のように続ける。「そもそも、日本だったら、あれだけ広範な政治家にカネをばら撒いたエンロンは破綻していなかったのではないか。まず間違いなく、アーサー・アンダーセンが崩壊することはなかっただろう。ワールドコムなど官民挙げて先送りして揉み消していたに違いない。少なくとも、内部告発を契機に粉飾が発覚することはなかつたと断言できる。」


今から、この木村の「日本資本主義の哲学」の分析を読み直すと、木村の分析が喜劇以外のなにものでもないことがわかる。皮肉にも、木村が内紛の末に実質的に社長(取締役?)を勤める「日本振興銀行」の不祥事(不正融資)が発覚し、これまた木村とも無縁ではないはずの、つまり木村的に言えば「不良企業が退場した」後に登場してきた「新興IT企業」、要するにホリエモンの「ライブドア」が東京地検強制捜査を受け、「株価操作」や「粉飾決算」で破綻寸前に追い込まれている。


これは、どういうことなのか。これは、あれほど企業家のモラルを強調してきたにもかかわらず、木村剛の経済哲学である資本主義の「ルールとモラル」を一番先に破り、踏み外したのが木村剛自身やその仲間たちだつたのではないか、ということだ。


ちなみに木村剛は政府の「金融再生プロジェクト」のメンバーを務めていたようだが、それはすべて竹中平蔵との人脈によると言われている。木村自身が、しばしば「金融庁に顔が利く・・・」を売り物にしていたと言われている。この言葉が何を意味するかは明らかだろう。


ライブドアの「ニッポン放送株買占め事件」における「時間外取引」をいち早く「合法」と宣言した金融庁の不可解な動きが、木村剛とも無縁ではないと言うことだ。つまり木村剛竹中平蔵の間にこそ、資本主義の「ルールとモラル」の感覚が欠如していたのではないか、という問題だ。