文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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ケインズの「乗数効果」論を否定するフリードマンの「恒常所得仮説」理論について 

                   
ケインズ主義的な総需要拡大論では景気は回復しない、というのが小泉・竹中派の「構造改革なくして成長なし」の理論的前提である。彼らは需要と言う問題を徹底的に無視し、排除し続けている。それがきわめて政治的な、党派的な、派閥的な次元の問題であることは言うまでもないが、では、小泉はともかくとして竹中は、なぜ、そういう固い信念をいつまでも固持し続けていられるのか。


すでに竹中理論が破綻していることは実体経済の悲惨な現状が証明しているにもかかわらず、それを認めようとしないどころか、ますます意固地になって、反ケインズ的な政策に固執するのは、何故か。それは、一言で言うならば、竹中が、アメリカの新古典派の理論に依拠し、それを盲目的に信奉しているからだろう。


現実の経済が破綻しても自分が信奉している経済理論に間違いはない、なぜならそれはアメリカ経済学の主流派だからだ、間違っているのは理論そのものではない。景気がなかなか回復しないのも、政策と実行のプロセスで政治家やジャーナリズムなどが不当に介入し、政策を歪曲させたた結果にすぎない、と思っているはずだ。それ故に、政策の現場からリタイアすることが出来ないのだ。政策の現場から離れた途端に、竹中的な理論の破綻が明白になるからだ。


おそらく、日本の景気は、小泉・竹中が、政策の現場から離れさえすれば急速度に回復するはずである。それに急ブレーキをかけて、逆噴射状態になっいているのが現在の日本経済なのである。しかし、こういうことをいくら言っても始まらないだろう。宗教問答的な水掛け論に終わるだけだろう。問題は理論そのものである。竹中が依拠している理論は何であり、その理論の何処が間違っているかを理論的に解明し説明することである。私は、この問題を追求している日本の経済学者を一人しか知らない。その一人が丹羽春喜である。


丹羽によると、アメリ新古典派とは、フリードマンやルーカスに代表される、70、80年代以降の経済理論である。この学派は、ケインズを批判し否定することによって新しい経済学として誕生したという歴史的経緯がある。それ故に、反ケインズ主義は理論的支柱を形成している。その反ケインズ主義的な理論の中でも、特にフリードマンの「恒常所得仮説」理論が重要な意味を持っている。なぜなら、ケインズ主義の理論的支柱である「乗数効果」論を否定する理論だからである。

《消費支出がなされるのは家計の「恒常的な所得」からのみであるとして、通例を上回るような賃金上昇やボーナス、座家業手当て、減税、等等、の「所得変動」からは消費支出がまったく行われないものとするという極端な状況を仮定して、それに基づいて、ケインズ的財政政策で「所得変動」が増やされた場合の「乗数効果」を非常に低く見積もるような考え方を示唆してきた。》(丹羽春喜『新古典派の内含する破壊的思想とその日本への浸透』)


 これが、フリードマンケインズ批判の理論的根拠となる「恒常所得仮説」理論である。つまり、こういうことだ。「臨時収入からは支出や消費がまったくなされず、したがって当然のことに乗数効果も発生しない」というわけである。この理論的前提の下に、わが国でも、とりわけテレビや新聞を中心とした経済ジャーナリズムにおいて、いくら公共投資などの総需要を拡大しても景気回復にとっては無益だという言論が多数派を形成し、総需要政策という税金の無駄遣いをやめて、「潜在成長率」を高めるための「構造改革」に専念すべきだという「奇妙な正論」が一般化することになったのである。


 このフリードマンの「恒常所得仮説」こそが、反ケインズ主義の理論的支柱の一つであり、竹中らが信奉している理論的前提なのである。

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