文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

貨幣形態が交換の神秘(価値形態)を覆い隠す。 

  
 小泉・竹中路線の経済・運営に関しては理論的にも実践的にも、非難・批判が、巷に横行している。しかし竹中や本間等の学者・エコノミストグループ、あるいは宮内、奥田等の財界の小泉支援グループを初めとする小泉政権の経済ブレーンは、それらの批判に対してビクともしないように見える。


彼らは、膨大な倒産と自殺者を出している、この平成の大不況【小泉大不況】を目前にしているにもかかわらず、そういう巷の意見に誠実に耳を傾けようとする気配さえまったく見せない。為政者としての誠意と畏怖というものが、まったく感じられない。かつてはそうではなかった。なぜだろうか。おそらく、その原因は巷の非難や批判そのものが素人的だからである。言い換えれば、批判・非難するグループも、竹中、本間、あるいは宮内、奥田らと同じレベルでしか議論しかしていないからである。つまり政策的次元の議論しかしていないからである。


マルクス経済学が経済学の主流であった時代には、マルクス主義経済学からの批判が正しいか間違っているかというレベルにおいてではなく、マルクス主義からの理論的原理的な批判に、政権担当者は、何らかの形で答えなければならないという社会的な義務を課せられていた。その結果、官僚や政治家のような政権担当者たちも、理論的原理的なレベルでの議論をせざるを得なかったのである。議論・応戦しなくても、少なくとも耳を傾けざるをえなかったのである。しかるに戦後の日本経済政策や経済運営が、今よりもはるかに健全であった根拠はそこにあると言わなければならない。問題は「正解」に達することではない。「問い」や「批判」の前で立ち止まることである。


マルクスケインズに私が固執するのはそこにおいてである。それは、トーマス・クーンの言う「通常科学」のレベルでの議論である。つまり「科学革命」的レベルでの議論としての原理論が、小泉・竹中の側にも、それを非難批判する側にもないのである。私が、マルクスケインズを同列に論じるのは、通常科学的レベルではなく、科学革命的レベルで、経済という問題、交換という問題、貨幣という問題を考えてみたいからである。交換の秘密や、貨幣の神秘、というような問題は、日常の経済生活や経済政策には必ずしも直結していない。しかし、それは、われわれが、日常という幻想の中で生きているからである。前にも書いたように、交換の秘密や貨幣の神秘は戦争や革命の時、つまり「科学革命」の時にしか露呈しない。


しかるにマルクスケインズはそういうレベルで経済や経済学について思考している。たとえば、貨幣について、マルクスは、こう書いている。


《価値形態、その完成した姿である貨幣形態は、はなはだ無内容かつ単純である。にもかかわらず人間の頭脳は、二千年以上も前からこれを解明しようとつとめてきてはたさず、しかも他方、これよりはるかに内容ゆたかで複雑な形態の分析には、少なくともほぼ成功している。なぜだろう? 成体は、体細胞よりも研究しやすいからである。しかも、経済的形態の分析において、顕微鏡も、化学試薬も、役に立たない。抽象力が、両者にかわらねばならない。》

普段、われわれは貨幣について考えない。考える必要がないからである。そしてその貨幣が、交換や貨幣の神秘と秘密を覆い隠すのである。むろん、われわれは、貨幣(紙幣)が物としては「紙くず」であることを知っている。しかし、貨幣の神秘や秘密を知っているわけではない。貨幣という尺度を通して商品や交換や経済を考える。貨幣そのものについては考えない。しかしそこから考えることが原理的であり、本質的なのである。貨幣という存在の深遠の前で立ち止まり、それについて考えること。マルクスケインズはそうしたのである。問題は「正解」に達することではない。「問い」の前に立ち止まることである。竹中や本間が巷の意見を無視黙殺するのは、彼らがそういうレベルの問題について考えたことがないからである。

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