文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

大江健三郎が、高麗大学で小泉批判。靖国参拝問題で・・・。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/05/19/20060519000034.html


僕は、大江健三郎の「靖国問題」の解釈に必ずしも同意するものではない。むしろ、思想的にも政治的にも反対の立場だと言っていい。しかし、そうだからと言って、僕は大江健三郎売国奴だとか工作員だとか、反日文化人だとか言うような種類の大江健三郎批判にも同意できない。というのも、僕は、大江健三郎という文学者(作家)を、どのような文学者(作家)よりも深く尊敬しているからだ。


大江健三郎の発言がそんなにウスッペラなはずはない。そこには、大江健三郎なりの論理と心理(深慮遠謀?)がある筈である。言い換えれば、大江健三郎も決して、日本という国や郷土が大嫌いな反日文化人なのではなく、むしろそこらへんのウスッペラなベニア板のような愛国主義者ではなく、本質的、原理主義的な愛国主義者なのであり、ただその愛国の表現形態が異なるだけなのだ、と僕は思っている。


つまり大江健三郎が小泉の靖国参拝を批判するのは、何故か、と考えることにも価値があるはずだということだ。そこが、知性も教養もない、うすっぺらな「ネット右翼」や「右翼バアーサン」や、あるいは流行思想としての「保守思想」に付和雷同し、マスコミやネットの保守言論に振り回されて右往左往している安倍晋三のような腰の軽い保守政治家らと、僕が異なるところだろう。


僕の人生は、大江健三郎の小説を読むことから始まった。高校時代だった。それまで僕には読書の習慣はなかった。本を読むのは、ほぼ学校の教科書に限られていた。しかし、ある日、たまたま生物の先生(民俗学者としても有名な「小野重朗先生」)に教えられて、大江健三郎の小説を手にすることになった。


それから僕の人生は変わった。それから僕は本を読むことに夢中になった。そして結果的には、それを職業にするようになったというわけだ。


僕は、早くから大江健三郎の「政治思想」には反対だった。「ヒロシマ・ノート」や「沖縄ノート」(いずれも岩波新書)を最後まで読み通すことが出来なかった。しかし、それでも大江健三郎への尊敬と畏敬の念は消えなかった。その後、小林秀雄から江藤淳吉本隆明福田恆存などを読み、大きな影響を受けたが、しかし、それは大江健三郎とは比べようのないものだった。


今、大江健三郎は、政治的にも文学的にも明らかに孤立していると思う。しかし僕は、激しい批判や罵倒を受けながらも、時勢に動かされることなく、その孤立と孤独を楽しんでいるかのように見える大江健三郎が嫌いではない。


かつて保守と言われた文学者や思想家たちもまた、戦後民主主義の時代、左翼革新派の時代には、そういう孤独と孤立の中を生きてきた。僕は、「危険な思想家」と批判罵倒されていた小林秀雄福田恆存三島由紀夫というような「孤独な思想家」の「孤立」が好きだった。そして彼等を支えているものは何か、といつも考えていた。


そして僕がたどりついた結論は、時勢に振り回されずに、孤独な「保守思想家」として生きていくには、芸術的、あるいは学問的なバックグランドがないといけないだろう、ということだった。小林秀雄福田恆存、あるいは三島由紀夫江藤淳は、政治的には対立する立場の人たちからも尊敬され、人間的にも一目置かれていた、ということだ。


僕は、付和雷同する多数派が嫌いだ。多数派はモノを考えない、と思うからだ。少なくとも大江健三郎は何かを考えている。小林秀雄が、政治思想的には相容れないにもかかわらず、大江健三郎を高く評価していた理由もおそらくそこらあたりにあるだろう。


政治思想の対立や差異などウスッペラな、表層的な問題に過ぎないのだ。したがって僕は、小泉より、大江を支持するのだ。






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