文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「後講釈」としての「戦後の思考」を排す。

僕が文芸評論家、あるいは物書きの「はしくれ」としてもっとも嫌悪し、もっとも強く排斥したいと思っているものは、「後講釈」としての「戦後の思考」である。「後講釈」とは、問題や事件が終わった後で、すべてがわかっていたかのように議論する思考である。つまり戦争が終わった後で、「あの作戦が間違っていた、あの時にああすれば…戦争は勝っていた…、いや戦争そのものが間違っていた…」という類の議論である。


むろん、戦前であろうと戦後であろうと、議論すること自体は間違いではない。問題なのは、「自分は最初からわかっていた」という錯覚と自己欺瞞の元に思考するということだ。たとえば、ある無名作家が芥川賞を受賞したりすると、それまで歯牙にもかけなかったような無名作家を、芥川賞受賞という結果に基づいて過大に評価し、絶賛する人たちがいる。というよりほとんどの人がそうだと言っていい。


芥川賞を受賞しようと受賞しまいと文学的評価や価値がそれほど変化するわけではない。しかし、多くの場合、あたかもすべての結論が出たかのように作家自身も読者の側も錯覚する。むしろ、芥川賞なんか受賞しない作家の方が「大物作家」に成長する可能性すらゼロではないのに、である。つまり、人間は、概して結果から思考する、あるいは結論に基づいて思考するものなのだ。


柄谷行人に「戦前の思考」という本がある。言うまでもなく、「戦争終焉後」に、つまり事件終結後に、すべてが最初からわかっていたかのように、結果に基づいて議論する人たちを批判した本である。言い換えれば「神の視点」に立って議論を展開する「決して間違わないヘーゲル的思考」を排して、「間違うかもしれないマルクス的思考」としての「戦前の思考」、ないしは「戦中の思考」を推奨したものである。


というわけで、僕が言いたいのは、「堀江疑惑メール問題」で、昨日から、マスコミに登場して、「最初からすべてが解かっていた」かのような発言をする政治家やジャーナリストや情報通称する「愚者たち」の「後講釈」の馬鹿馬鹿しさについてである。「解かっていたら最初からそう言えよ」(笑)。というより、騙されているのはお前等だろう、ということだ。早く目を覚ませよ。


だから永田君、たとえ君の判断が間違ったとしてもマスコミや世論などに左右されずに、確信があるならば情報提供者の名誉と信頼を裏切ることなく最後まで自らの信念を貫いてもらいたい。


ところで、荒川静香が「金メダルをとる」と明言していたプロの評論家(専門家)が何人もいた。僕の見た限りでは、佐野稔と渡部絵美が、某週刊誌で、荒川の金メダルと安藤の選外を断言していた。さすがである。「目利き」とはこういう人たちのことを言うのだろう。僕も、実は密かに「荒川の金メダル」を予測していた。門外漢の素人の目にも、荒川の勝負への執念と気迫と意気込みは伝わってきていたからだ。「オリンピックは勝つことに意義がある」と感じていたのは荒川だけだっただろう。


「オリンピックを楽しむためには勝たなければならない。次はメダルを取るためだけにオリンピックに行く…」と、すべてが終わってから言っていた馬鹿男がいたが、もう遅いんだって…。いいから、早く消えて、二度と出てこないでくれ(笑)。


というわけで、荒川が本当に金メダルを取ってしまつた後では、さすがに「金メダルを予想していた…」とは口が裂けても言いにくい。というより言いたくない。それよりも僕は、安藤某や今井某や原田某等の言動を不愉快に感じて、密かに「尾舞ら、全滅しろ。この調子だとフィギュアも全滅だろう…」と、このブログで書いていたからだ。だから、戦後になってからは、何も言わない。あたったともはずれたとも。ただ黙って現実を厳粛に受け止めるだけだ。むしろ、「安藤ミキティ」という馬鹿女が、何回も転ぶのを見て、予想通りでホッとした(笑)、というのが「戦後」の正直な感想である。


それよりも僕が心底から驚いたのは、金メダル獲得とともに、いち早くテレビ画面に登場した荒川を使ったお米のコマーシャルである。僕は、金メダル以後に初めて見たが、この荒川コマーシャルは以前から放映されていたのかな(笑)。安藤ミキティという勘違いの馬鹿女ばかりが異常なテンションではしゃいでいるテレビを横目で見ながら、荒川に目を付けていたこの会社こそあらためて「スゴイなあ」と思う。これこそ「戦前の思考」だろう。お米の売り上げも爆発的に伸びているとか。お米屋さん、おめでとう。参りました。