文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

絲山秋子の芥川賞受賞作『沖で待つ』を読み直す。

絲山秋子芥川賞を受賞した。デビュー当初から注目し、高く評価してきた者としては、まことにめでたいことであるが、しかし少し遅すぎたような気がする。というのも、今回の受賞作『沖で待つ』も、いかにも絲山秋子らしい秀作であるが、しかし絲山秋子という作家を代表する作品とは思えない。絲山秋子は、今回、受賞できなかったら次回から芥川賞直木賞の候補になること自体を辞退するつもりだったらしい。言い換えれば、これは、前々回の芥川賞を受賞した阿部和重と同様に、絲山秋子ももはや芥川賞を必要としない中堅作家に成長してしまっていたということだろう。芥川賞のいい点は、海のものとも山のものとも判断しかねるような無名の新人作家が、突然、一作だけでデビューして、芥川賞受賞を契機に一世を風靡し、時代の文化状況を転換する可能性を秘めているというところにある。すでにある程度の売れっ子作家になり、社会的にも認知された後で受賞する直木賞と大きく異なるところだ。直木賞作家が受賞を契機に時代の空気を変えてしまうということはありえない。だから、芥川賞にはタイミングが必要なのだ。さて、絲山秋子のデビュー作は、「文学界」新人賞を受賞した『イッツ・オンリー・トーク』だが、それ以後、いかにも絲山秋子らしい批評的な刺激的作品を次々と発表しており、もっと早い段階で芥川賞を与えるべきであった。『イッツ・オンリー・トーク』はいうまでもなく、『海の仙人』や『袋小路の男』も、『沖で待つ』よりは刺激的であった、と今から振り返ると思えてくる。と言っても、今回の受賞作『沖で待つ』がつまらないということにはならない。やはり、この作品も、いかにも絲山秋子らしい作品というべきだからだ。その「絲山秋子らしさ」とは、「総合職で就職した女性達の現在」というところにある。『イッツ・オンリー・トーク』は、総合職の女性が会社生活を経て心身症に陥る反会社的な色彩の強い小説だったが、今回の『沖で待つ』は、むしろ会社生活に適応している女性を描いているという点で、「会社的」な小説と言っていい。実は、近代小説、あるいは現代小説というジャンルは、「会社」というものを描くということにおいて無力であった。「サラリーマン小説」もないわけではないが、決して多くはないし、また現代小説の主流になることもなかったと言っていい。要するに「会社」や「会社員」を内在的に描くことはかなり困難な作業である。それを強引に描こうとしているのが絲山秋子である。ところで恒例の「文藝春秋」芥川賞特集号を買う楽しみは、選考委員たちの選評を読むことであるが、今回もまた石原慎太郎等のトンチカンな選評に大いに笑った。

私が新人の作品に期待するいわれは、私にとって未知の新しい戦慄に見舞われることへの期待以外の何ものでもない。それは正直いって選者として有名な文学賞を未知な可能性に与えるという社会的な責務なんぞよりも、むしろ物書きである私自身の人生の拡幅、深度化のよすがを、選考という機会のもたらす偶然にすがって得るという機会が先なのだが。しかし最近その期待がかなえられることが稀有となってきた。これはいったいどういうわけなのだろうか。私自身が老化し真に新しいものへの反応が鈍くなってきたのか、それともおしなべて候補となった作品の資質、水準のせいなのか。

これは、石原慎太郎の選評の一部だが、むろん言っていることは正論に間違いないが、それにしてもステレオタイプな物の言い方である。「私にとって未知の新しい戦慄に見舞われることへの期待」とは、いったい何なのだろうか。「期待」するのは自由だが、その「期待」の中味が問題だろう。この選評は、石原慎太郎という物書きが、今や、いかに時代状況から浮いた時代錯誤的な存在になってしまっているかを象徴していると言わなければならない。「私自身が老化し真に新しいものへの反応が鈍くなってきたのか…」と反省する振りをする前に、そうであるに決まっているのだから、さっさと選考委員を辞退するぐらいの「物書きとしてのプライド」を持ち続けて欲しいものだ。古井由吉も辞めたし三浦哲郎も辞めたではないか。大江健三郎にいたっては、とうの昔に辞めているではないか。少なくとも彼等には、作家としての、あるいは芸術家としてのプライドがまだ残っていたということだ。誠実な物書き、本質的な芸術家とは、いつまでも地位や権力や名誉職にすがりつくことではなく、退くべきときにさっさと退く勇気を持つ存在でなければならないのではないか。昨今の石原慎太郎の言動にはそれがないように感じられる。石原慎太郎が、その文学観や鑑識眼に自信があるならば、「選者として有名な文学賞を未知な可能性に与えるという社会的な責務なんぞよりも、むしろ物書きである私自身の人生の拡幅、深度化」という責務に向かって突き進むべきではないのか。それが出来ないところに石原慎太郎という作家の限界が露呈している。言い換えれば、だからこそ、石原慎太郎は、『父親と息子たち』などという、これまでの文学的業績を無にするような、俗物臭のあふれる作品を無自覚なままに堂々と刊行することが出来るのである。

小説は小説である限り何もことさら大きな主題を取り上げ描く必要などありはしないが、それにしても多くの候補作の印象は小器用だがいかにもマイナーという気がしてならない。これらの作品を読んで何か未曾有の新しいものの到来を予感させられるということは一向にないし、時代がいかに変わろうと人間にとって不変で根源的なものの存在を、新しい手法の内であらためて歴然と知らされるという感動もない。レイモン・アロンは今日の青春の不毛の所以は戦争、貧困、偉大な思想の喪失にあるといっていたが、しかし今日平和と豊饒の内に我に(俄に?ー山崎註)何か本質的なものが荒廃し喪失されつつあるという未曾有の予感がしてならないのだが、そうした根源的な主題への視線が一向に見られないのはどうしたことなのだろうか。私にとって今回も、どの候補作も期待した未知の戦慄からはほど遠いものでしかなかった。

石原慎太郎は、今回の選評で具体的な作品の具体的な部分には一言も触れないで、古めかしい公式論、原則論を繰り返している。「時代がいかに変わろうと人間にとって不変で根源的なものの存在を」と言うのは簡単だが、その「根源的なものの存在」が何であり、何処にあり、そしてどう描くべきかについて語ることは決して容易ではない。ましてそれを作品化するという作業は。逆に石原慎太郎は、「そうした根源的な主題への視線が一向に見られないのはどうしたことなのだろうか。」と新人達に苦言を呈するが、そういう安易な苦言の呈し方に、石原慎太郎の現在があると思われる。「根源的なものの存在」「根源的な主題への視線」という発想と言葉の使い方に、石原慎太郎の文学的衰弱が露呈している。何処かに「根源的なもの」が存在するという思考こそ、通俗的で、いわゆる形而上学的である。その「根源的なものの形而上学」を批判し、解体していく作業こそが、現代文学が取り組んでいるテーマなのではないか。石原慎太郎が、レイモン・アロンというフランスのくだらない三流学者の名前を出して語る「青春の不毛の所以は戦争、貧困、偉大な思想の喪失」という物語こそ、批判解体すべき形而上学だろう。少なくとも、絲山秋子という作家が取り組んできたテーマとは、そういうものだったのだ。石原慎太郎にそれが理解できないだけの話なのだ。さて、石原慎太郎の「選評」の軽薄さとは逆に、河野多恵子山田詠美黒井千次の「選評」には、絲山秋子の文学が何を目指しているかを暗示させるような言葉がある。