文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「新古今集」的文学から「古今集」的文学へ

 私は三島由紀夫自身の書いた作品を読むのは嫌いではないが、いわゆる三島論や三島研究の類の書物を読むのは好きではない。しばしば大きな勘違いと思われる問題点を発見してシラケルからだ。たとえば、「三島の予言はすべてあたった」という類の三島論である。三島由紀夫は宗教家でも預言者でもない。予言がことごとくあたるはずがない。あたったとすれば、それは文学ではない。むしろ、「予言どおりにいかない」ような世界を描き、論じるのが文学であろう。また、私は、一部の論者が乱用する「三島美学」とか、「三島の豪華絢爛な言語感覚」というようなステレオタイプな三島論にも胡散臭いものを感じる。
 とは言いながら、三島由紀夫に対する最近の評価はうなぎのぼりである。むろん、それは文学のジャンルに限らない。いや、むしろ政治や思想の領域でこそ三島由紀夫に対する評価は高まっていると言っていい。もはや三島は単なる作家ではない。当然のこことはいえ、やはり最近の三島評価の高まりには重要な問題が含まれていると思われる。私見によれば、それは、現代文学に欠如したものが三島文学の中にあるからだろう。では、最近、三島由紀夫はどういう評価を受けているのか。
 本書『あめつちを動かす』は、最近、「三島由紀夫研究」という研究雑誌まで刊行し、三島文学研究というジャンルで緻密な研究成果を続々と発表し続けている松本徹が、三島由紀夫における「文学観の転換」という問題に焦点を絞って三島文学を論じたものである。ここには、最近の三島評価の高まりの謎を解く鍵が隠されている。 
 松本によると、三島由紀夫の文学観は「憂国」という作品を書いた時点から大きく変貌する。政治問題や思想問題などのような現実的な問題が文学の主題として前面に出てくると同時に、現実世界から逃避して美的空間に沈潜する、いわゆる芸術至上主義的な傾向が消えていく。つまり「現実逃避の文学」から「現実参加の文学」への転換である。
 そしてその傾向は時間の経過とともにさらに強まり、やがて民間の軍事組織「楯の会」結成を経て、自衛隊市谷駐屯地での「割腹自決事件」へと結実する。
そこで、松本は、三島由紀夫における文学観の、この転換を、「新古今集」的な文学世界から「古今集」的な文学世界への転換という風に解釈する。これが松本の主張の核心である。本書における松本の三島論の新しさは、おそらく、この「新古今集」から「古今集」への転換という分析にある。松本は、この転換を「私」から「公」への転換としても論じている。私も、なるほどと思った。松本は、この「新古今集」から「古今集」への転換というテーマを軸に、三島由紀夫の文学や思想や政治、そして天皇論へと分析を進めていくが、なかなかその分析は鮮やかなものである。
 では、「新古今的文学観」、あるいは「古今的文学観」とは、どういうものだったのか。
 この「新古今集」から「古今集」への転換、つまり虚構から現実への文学観の転換と回帰は、三島の代表作の一つである『金閣寺』の終末部に端的に示されている、と松本は言う。
 『金閣寺』は、若い僧侶が金閣に放火し、「闇の中にありありと美しく輝く二重の楼閣を見る」という話だが、そこで、「現実を退けて、幻想の領域を押し広げ、そこに究極的な美を出現させようとする」「究極的な美といったようなものが実際に在るかどうかはともかく、自らが幻視するまま、言葉の工夫でもって、虚のうちに構築する」。しかし主人公は、最後に、炎を吹き上げる金閣を見下ろしながら、自殺用に持参したカルモチンの壜を投げ捨て、「生きよう」と思うー。
 ここで、主人公は、「生を受け入れ」「現実を受け入れる方向へ転じ」る。これを、松本は、三島が「新古今集的」立場を清算した瞬間と捉える。以後三島の文学は、『鏡子の家』『宴のあと』などを経て、現実的な問題、政治的思想的な問題へと傾斜していく。その向かう先にあるのが「古今集的」立場である。
 「新古今集」が、武士政権の誕生で歴史の表舞台からの退場を余儀なくされ、「紅旗征絨は吾が事にあらず」と宣言するしかなかった没落貴族・藤原定家後醍醐天皇に代表されるような「現実逃避の文学」であるのに対して、「古今集」は、その「仮名序」に紀貫之が「力をも入れずして、あめつちを動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、たけきもののふの心をなぐさむるは歌なり」と書き記したような「現実参加の文学」である。
 つまり、2・26事件に乗り遅れた若い皇軍兵士夫妻の濃密な性愛と血腥い自決を描いた『憂国』や、同じく2・26事件の青年将校たちと神風特攻隊の兵士たちが、天皇に向かって、「などてすめろぎは人間となりたまいし」と怨嗟の声を上げる『英霊の声』、あるいは『同義的革命の論理』や『文化防衛論』というような作品は、現実と対峙し、現実と対決していく、いわゆる「古今集的」作品だったというわけである。
「前期三島」から「後期三島」への文学観の転換という指摘は、別に目新しいものではない。しかし、この転換を、「新古今的」世界から「古今的」世界への転換として分析していく松本の批評的視点は、これまでの三島論とは違った三島論への道を切り開いたと思われる。
この本には、三島由紀夫における「情報的言語」と「文学言語」の差異に関する鋭い分析もある。情報的言語とは意味や情報を伝達するだけの言語で、言語の美や上官を切り捨てた言語であるが、松本は、最近の文学の世界もそ。ういう情報的言語が主流になり、それが文学の衰退と貧困化をもたらしている、と分析す。むろん、その情報的言語の氾濫を予感し、それに抵抗し続けたのが三島由紀夫だった。三島における「文学から政治へ」の転換は、政治主義的言語への転換と誤解されがちだが、むしろ政治の世界へ文学的言語を持ち込んだというのが正確だろう。三島が、政治や軍事や、あるいは天皇論を語るとき、常に「政治的無効性」に固執した理由はそこにある。


 




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